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初稿公開日:2015年2月21日
春の情景
季節は梅雨の時期を
迎えようとしていますが、
お変わりございませんか。
さて、
近所には寒緋桜(カンヒザクラ)が
街路樹として
植えられている道があります。
開花時期に、
ヒヨドリが賑やかに
蜜を吸いに来ていたのは
ついこの間と思っておりましたら、
先日、熟した果実が
自分の足下を埋め尽くすように
一面に散らばっているのを見つけ、
時の経過を感じたものです。
一方変わってスペインの春。
アマポーラ(ポピー)が咲くのは
確か4月下旬頃からでしょうか。
マドリードを始め、
特に郊外へ延びる街道沿いでは
二週間ほど見ることが出来ます。
青い元気な麦の穂と、
その間をぬって
寄り添うように咲くアマポーラの取り合わせは、
さながら緑の地に赤い水玉模様の
鮮やかなフラメンコ衣装を思わせます。
また畑の上空に
そよ風が連れてくる雲が加われば、
光りと影による効果で
赤と緑に濃淡がつき、
それもまた美しい光景です。
広がる大地に群生するアマポーラは、
スペインらしい風景として良く知られていますが、
それだけではなく、
3月から4月にかけて一面に
桜の花が咲く谷があるのをご存じですか。
今回最初のお話は、
「スペインの春」を中心にしていきますが、
と同時に「心に咲いた桜の花」も合わせて
ご紹介していきたいと思います。
どうぞごゆっくりお楽しみ下さい。
『春暁』の情景
今春のうららかなある一日の事でした。
写真制作にと幾つか春景色を
心に描いておりましたら、
懐かしい唐代の詩人、孟浩然(もうこうねん)の
漢詩『春暁』の情景が、
久々に心に浮かび上がりました。
この漢詩を
初めて目にしたのは、
確か学校の授業でしたよね。
春眠暁を覚えず、
処処に啼鳥を聞く、
夜来風雨の声、
花落つること知る多少。
学習した当時、
この五言絶句に触れて
簡潔明瞭な詩体から
一字一字の漢字の持つ力と、
誰もが体感するこの自然描写に、
感心してしまいました。
ところが今回この漢詩の一句目、
「春眠暁を…」を思い浮かべていると
『ああ、マドリードの春眠…』と、別な意味で
詩を懐かしむ事になってしまいました。
それは一体どんな春だったのか。
もったりぶらずにお話の舞台を
もうマドリードへ移す事に致しますね。
マドリードの春
市の中心部。
人や車が往来する大通りや広場、
歴史的モニュメント周辺では
上品で光沢感のあるチューリップの花や、
ビロードの風合いを持つパンジーなどが
春の花壇を美しく演出します。
でもご紹介したかったのは、
どちらかと言えば
住まいのあった身近な春の様子。
今でも思い出すと微笑ましいやら、
まぁ悩ましいやらの方ですけれど…。
庭の住人
中心街から離れていた
マドリードの住まいは、
週末の朝になると、
乗客が近所のバスの停留所で
乗降する様子もなく、
緩やかな坂道を軽快に下っていった後は、
しばらくの間、
再び静寂が訪れる...といった場所でした。
また、
比較的緑に恵まれた地域でしたので、
ご近所や我が家の庭の木々には
黒歌鳥が居を構えていたのです。
愛くるしい目に、黄色いくちばし。
雄は漆黒、雌は褐色の羽毛。
この黒歌鳥、日本へも
ごくたまに渡ってくるようですね。
ヨーロッパでは、
美しい声の持ち主として知られており、
また身近な鳥として
スペインでもオリーブ油の缶を始め、
ワインのラベルにも使用されていました。
「処処に啼鳥を聞く」
「もしかするとマドリードの春のお話に
この鳥が関係しているのでは?」と、
気づき始めている方が
すでにいらっしゃるかも知れませんね。
実はその通りなのです。
ですから庭の住人・黒歌鳥を
漢詩『春暁』に当て込んで
春の様子をお話ししようかしらと、
考えたのです。
さて、どんな風になることやら...。
それでは手始めに、対象となる
オリジナルの前半二句からどうぞ。
春眠暁を覚えず、
処処に啼鳥を聞く、
意味はすでにご存じかと思いますが、
「春の眠りは心地よいので明け方も知らずに眠っていた、
目が覚めるとあちらこちらで鳥の啼き声が聞こえる」
ですね。
ここで春の黒歌鳥について補足しますと、
暖冬の年であれば2月から、
通常3月から5月までが繁殖期にあたります。
オスは「木立のコンサート会場」で
それは一生懸命こんな風に囀ります。
黒歌鳥(オス) 『春が来ましたよ、お嬢さん♪
僕の素敵な声をどうぞ聴いて下さい。
声真似だって色々出来ますよ~!』と。
一見、美声で囀るのなら
さぞ春らしい日々と思いきや、
いえいえ、問題は相手が決まる迄、
ほぼ連日連夜囀ることなのです。
『春暁』を揶揄する意図は毛頭ないのですが、
『春暁・マドリードの庭編』が許されるのなら
次のような仕上がりに。
「春の眠りは心地良いはずなのに、
毎夜元気に啼く声が私の睡眠を妨げる」
尤も注意が必要な時間帯とは、
こちらの眠りが浅くなる暁の頃。
かわいい「騒音鳥害」とも言える
大きく抑揚のある啼き声は、
夢の中でなのか、それとも現実なのか、
正に夢現(ゆめうつつ)なのですが、
運悪くこの時間、練習不足の彼等の声に
少しでも耳を傾けようものなら、もういけません。
黒歌鳥(オス) 「...(ヒバリのつもり)ピーィチュク、ピー・チイク、ピー&%#●■!??
あっ、すみません。これ、まだ良く歌えないので飛ばします~。
次、ナイチンゲールの声真似いきます!あれ、れ、れ。
最初の出だし、何だっけ...?」
まだまだ夜は明けぬと言うのに、
こちらは両肩を小刻みに振るわせながら、
「くっ、くっ、くっ…」と、声がかすかに漏れ、
それもやがて我慢出来ずに
本格的に笑いがこみ上げた時には、
もう完全に覚醒状態。
毎春の庭の思い出とは、寝不足の思い出。
詩人、孟浩然のような
心地良い寝覚めであったのなら!
今、お話を聞いて下さっているあなたも
もしかしたら「...」と、同じように
肩を振るわせながら
苦笑してしているかもしれませんね。
特別な花
さて
黒歌鳥との顛末記を語り終えたところで
今度は詩の後半である花のある情景、
三句目と四句目に移りましょうか。
夜来風雨の声、
花落つること知る多少
こちらの二句は、
「昨夜は風雨が吹いていたが、
どれくらいの花が散ってしまったのだろう」ですね。
ところで
以前から素朴な疑問があるのですが、
ここで登場するモデルの花は何でしょうか。
詩人が生きた盛唐に好まれた「牡丹」、
或いは「桃」や「椿」...。
『春暁』でうたわれているように
折角咲いた花が風雨に吹かれると、
気になる存在が桜なのではありませんか。
私もスペインで春を迎えるたびに
『日本では桜の開花はまだかしら?』などと、
季節柄よく気になっておりました。
桜は、何処にいても日本人にとっては
特別な花かもしれませんね。
サクランボの谷へ
マドリードから
「ヘルテの谷」(Valle de Jerte) を訪れたのは
かれこれ7,8年前、いやもう少し前かもしれません。
急に思い立って出掛けたのは、
「春になると私の山へ
日本人グループが花見に来られますよ」。
とあるスペイン人の話を聞き、その時
心にぱっと「日本の桜」が咲いたからでした。
ヘルテの谷は
中央山系・グレードス山脈の西南端に位置し、
車でマドリードから
北西の中世の城郭都市「アビラ」を経由し、
更に西へ。
マドリードからは
およそ2時間半ほどでしょうか。
谷間には同名のヘルテ川が流れ、
この川に沿って両岸に村々が点在しています。
また近くの山にはイノシシや、
山ヤギなどの野生動物が棲息し、
また野鳥や川魚の宝庫でもあります。
現地へ到着すると、
昼食がてら村の1つ、
「ヘルテ村」に立ち寄ることにしました。
山の斜面の桜が見える入り口付近で、
これから小道を馬で散策する人達に
出会いましたが、
ルートは幾つかあって
徒歩で、または馬、ロバでも
周遊出来るようでした。
出発を前にしてご機嫌のお二人。
桜の木は谷全体に何千本と植えられているので、
川辺や山中でピクニックしながらの眺めは
壮観でしょうね。
「こんにちは♪ 楽しんできて下さいね!」
村の様子を少しご覧になりますか?
現在、
人口1300人程の静かなヘルテ村は、
以下のような戦争の歴史が残されています。
それは今からおよそ
200年程前の1809年の夏のことでした。
前年にマドリードから始まった
「スペイン独立戦争」によって、
この村にもその波が押し寄せ、
勇敢にも村人達が
フランス・ナポレオン軍に対し蜂起したのです。
その結果、報復として村には火が放たれ
一部地域を除きほぼ壊滅状態になりました。
上の写真からでは
とても小さいので確認が出来ませんが、
嵌め込まれた面格子上部には、
1785年(建築された年)と刻まれています。
きっと焼き討ちから逃れた
数少ない一軒なのでしょう。
さて…。
気を取り直して、
今度はここの伝統的な民家を
一つ二つご案内しましょう。
建材は周囲で調達可能な
「木材」、「粘土」、「砂」、「石」や
「石灰」を使用しています。
こちらは前出と同じ民家。
「一続きのバルコニー」は色調や自然の風合いから、
何処かしら懐かしくなる風景です。
別の家屋では、外壁に粘土を使用した
「日干しレンガ」と木の枠組みも見られます。
また路地を歩いておりましたら、
家の戸口に下のような
「巣箱」と「バスケット」を見つけました。
底に貼られたシールから商品と思われますが、
こちらはお店なのか、それとも個人宅なのか判別が難しく、
この村の長閑な雰囲気を感じたものです。
ヘルテと言えばスペイン人にとって
言わずと知れたサクランボの産地です。
もしかしたらバスケットは、
さくらんぼ用なのではと推測しました。
かごに入った真っ赤に熟したサクランボ。
現地で頂くときっと美味しいでしょうね。
お味の方ですが、
果肉の味が濃厚で甘く、
マドリードでも初夏から夏にかけて出回ります。
また3ヶ月近くと長期間収穫が可能なのは、
ナバリンダと言うサクランボの他、
4種類のピコタ(ビガロー種)を
海抜の異なる段々畑を上手に利用して
栽培するからです。
あら…。
さくらんぼのお話に夢中になってしまい、
肝心の桜の花について感想を忘れるところでした。
訪れた日は空には灰色の雲が覆い、
太陽の光は頼りなく
すっきりとしないお天気でしたが、
その分、山の段々畑に咲くその姿は
天空からの光がまわって
和紙で作ったちぎり絵のように優しげ。
久々に甘い薫りが漂う
花咲く小道を歩くと
懐かしさで胸一杯になりましたよ。
心に咲いた「日本の桜」とは?
以上、
ヘルテの桜をご紹介したわけですが、
ではマドリードで心に咲いた
「日本の桜」とは
一体どのような情景だったと思いますか。
心に浮かんだ桜の情景とは、
不思議な事に
桜の名所や神社の境内など
画趣に富んだ
「美しい桜のある風景」と言うよりは、
むしろ、
どれもが桜のみで構成された、
またストーリー性を持たない
断片的なものだったのです。
例えば…。
ひと足速く開花する
早咲きの「河津桜」の花の色。
河津桜は
若々しい濃い桃色の花と、
黄緑の葉の組み合わせ。
本格的な春の到来を待つ人々にも
「もうすぐ本格的な春♪」と、
心にぐんと弾みをつけてくれます。
それから桜の姿。
手を差し延べるように
幾重にも広がりを見せる優美な枝振り。
小枝と春風の組み合わせ。
弥生の空を背景に、
目の前で上下に揺れ動くのは
沢山の「花の振り子」。
また春の風はいたずらっ子。
花は、
吹く一陣の風に桜吹雪となって
お濠や川の水面に浮かび、
そして花筏に。
ややもすれば、風も吹かぬのに
時折思い出したかのように、
はら・り…と枝から離れ、
螺旋の舞を披露する
ひとひらの花びら...。
しっかり折りたたまれていた
花の蕾や葉の、
そのはじける生命力。
また、咲いた裏桜の美しさ。
花一輪。
また寄り添うように
一輪一輪が作り上げる
「桜の花束」。
そして何よりも
記憶の中で鮮明であったのが、
見上げた時のこの眺めでした。
こうしてしばしの間、立って眺めていますと、
花は、花見客の楽しげな声に、
じっと耳を傾けている...。
何故か
そんな気がしてくるので不思議でした。
そして
空に向かって出来る
この桜の花冠(はなかんむり)の眺めが、
美しく優雅で、心に一番大きく咲いた
日本の桜かもしれません。
あなたは今春、こんな桜を
何処かでご覧になりましたか。
*** *** *** *** *** *** ***
休憩所へようこそ
さて、
第一部のお話が終了致しました。
ご覧頂きましてありがとうございました。
最後の様々な桜の姿はいかがでしたか。
ここで一旦
「休憩時間」のご案内をさせて頂きます。
どうぞこちらで気分転換をなさって下さいね。
この後は第二部、
前回第15話のマドリードの続きが始まります。
尚、今回はボリュームがあるため
休憩所はもう一度設けてあります。
それでは第二部をどうぞ。
*** *** *** *** *** *** ***
18世紀の散歩道へ
シベーレス広場は
町の東西に延びる二本の「アルカラ通り」と、
そして南北に延びる二つの大通り「パセオ・デル・プラド」、
「パセオ・デ・ロス・レコレトス」が交差する広場です。
今回はこれらの南北に走る
広い並木道をご案内するお約束でしたね。
またご自分がお散歩をする気持ちで、
ご覧になって頂けたらとても嬉しく思います。
では最初はそうですね…。
右手の道、パセオ・デル・プラドの次の広場まで
歩いてみましょうか。
それでは♪
広場から歩き出すと程なく
涼しげな水音が聞こえてくるのは、
“Fuente de los Patos”(フエンテ・デ・ロス・パトス)、
「鴨の噴水」です。
この噴水は18世紀中庸のもので、
背後にうっすら見える緑の木立、
「レティーロ公園」にあったものと言われています。
いかがでしょう?
噴水の淵に腰を掛けて、
少し眺めて行きませんか。
モチーフを良く観察しますと、
四羽の鴨は広げた羽で
皆、仲良く繋がっているようです。
そう言えば、
池に浮かんでいた鳥が、
羽繕いの為に扇のように羽を広げたり、
また水面から飛び立っていく瞬間は、
はっとする美しさを感じる事がありますものね。
離宮であった「レティーロ公園」
そうでした...!
この機会を利用して
この噴水の背後に見えるレティーロ公園も
一緒にご紹介致しましょうか。
その歴史も掻い摘んでお話しますね。
この公園が
まだ町の東側のはずれにあって、
「ブエン・レティーロ離宮」と呼ばれていた
17世紀後半から18世紀のことです。
時の王フェリーペ四世は人柄も良く、
文化面においては
ベラスケスのような才能のある画家を
保護する王でしたが、
山積した問題解決よりも
どちらかと言えば
一大娯楽施設であったこの離宮で、
池に船を何艘も浮べさせ
「海戦ごっこ」など雄大なショーを催すなど、
祭典にご興味があったお方のようです。
またこの時代は、
スペイン帝国の繁栄ぶりが
すでに過去のものになり、
それまでの無駄な戦争によって散財し、
国力の衰弱が決定的になった時期でもありました。
そして時は流れ、
この豪華な離宮も終焉を迎えるときが来ます。
1808年に起きたスペイン独立戦争です。
サクランボの谷ヘルテのお話で
登場したナポレオン軍は、
ここマドリードでも傍若無人な振る舞いをしました。
戦時中、離宮は彼等の兵営となり、
その間に破壊されてしまい、
現在、大部分の建物は残っていません。
そして現在のレティーロ公園。
週末ともなれば、
市民の憩いの場として人々が集まってきます。
池の畔に立っておりますと、
一艘の漕ぎ出された二人が乗るボートには
池の水に自分の手を浸しながら
はしゃぐ女性の姿が見られたり、
家族連れが乗ったボートからは、
子供達の元気な声が聞こえてきます。
また池の周囲では、
足を止めて見入る家族連れを前にして
お得意の演技を披露する大道芸人達や、
路上の無名の演奏家、
それに似顔絵画家達が集まるのです…。
レティーロ公園の様子、
ご覧頂けましたか。
それでは先を歩いていきましょうか。
芸術の並木道
パセオ・デル・プラド。
この道は別名「芸術の並木道」と、
呼ばれています。
それは、
世界的に有名な「プラド美術館」、
「ソフィア王妃芸術センター」や
「ティッセン-ボルネミッサ美術館」と
大きな美術館が集中している為です。
またこの散歩道は、
下のシベーレス広場の噴水を始め、
「アポロンの噴水」に
「ネプチューンの噴水」と三つの神々の噴水や、
石造りの彫刻等が配置された
エレガントな道になっています。
仮に車が走っていなければ
一瞬何処かの庭園内を歩いていると錯覚してしまいます。
それもそのはず、ここはマドリードでも最も古い
“Historic Garden”と言われています。
でも何故この道は庭園風に作られ、
芸術的な施設が特化しているのでしょう...。
実はマドリードが、
ヨーロッパ諸国の首都のように
美しい装飾が施されようになったのは
1700年代中頃、
スペイン・ブルボン家のカルロス三世の治世でした。
具体的には、
先ほどのシベーレス広場や、
次の「アルカラ門」など、
現代に残る数々の歴史的建造物は
この時代に建設されたものです。
では、
それ以前はどんな都市だったのしょうか。
そんな疑問にお答えする為に
カルロス三世がマドリードへ凱旋する辺りから
語っていきましょうか。
マドリード生まれのこの王は、
イタリアが統一する以前に存在した
シチリア、ナポリ王でした。
ところが異母兄フェルナンド六世が没すると、
王位を子に譲り、即位の為に
マドリードへ戻る事になったのです。
王が平穏なナポリの王宮から
マドリードにご到着なさると、
次のように仰せになったかもしれません。
「き、きたない!な、何と惨めで恥ずべき町!」
どうやら目に余る町の惨状に驚愕したようです。
その惨状に関しては、
王の公式伝記作家フェルナン・ムニョスが
以下のように記述しています。
「正に『豚小屋』の首都と、評価するのをためらわない。
泥や、ゴミ、排泄物が
筆舌に尽くしがたい光景と悪臭をなすのである」
1760年。
この国王が即位した頃のマドリードは、
人口15万弱の首都でしたが、
水不足の上、道は汚く、暗く狭い。
雨の日などは、ぬかるんでドロドロ。
昔のパリも不衛生であったと聞きますが、
マドリードも冬になれば
更にドラマチックで気のめいる光景だったのです。
続けて
上記の公式伝記作家の内容を要約すれば、
街中では豚が自由に闊歩し、
日没ともなれば夜間の街灯はなく、
賊が跋扈(ばっこ)する街角を歩く者なんて、お人よし扱い。
更におぞましいのは
ほぼ夜間に行われるあの光景。
(お食事中の方は、以下のお話しにご注意を!)
それはラバに引かれた荷車と共に、
斧や手ぼうきを持った清掃人達が町を巡る事。
しかしその荷車は
上のような車輪付ではなく、
代わりに丸太がついた荷車
(大きなちりとり風?)がずるずると
汚物を引き入れる為に引きずられ、
街に設置された数箇所の暗渠(あんきょ)に廃棄される。
その近隣に住む人々は
瞬く間に伝染病に感染してしまうのだ…と、
もう衛生状態は推して知るべし。
いやはや、大変な有様です。
説明は続きますが、
「エレガントな道」の散歩中ですので
この手のお話はこの辺でおしまいに。
ところで今回はお話の内容上、
豚さんに登場願いましたが、ここで一言釈明を。
「ごめんなさいね。
あなた達が決して悪いわけではないのよ...」。
スペイン・ブルボン家
都市マドリードの状態に驚かれつつも
「なにゆえこんな事に?」と、思いませんでしたか。
今度はそれも道々簡単にお話していきましょう。
1561年、マドリードの町は
スペイン・ハプスブルグ家のフェリーペ2世によって
この町へ宮廷が移され、
以来実質的に首都となった事は
第14話ですでにご存知ですね。
それから約140年後の1700年のことです。
その頃のスペインは政治、経済は荒廃して、
貧富の差がさらに激しくなるばかりでしたが、
そんな中、
時の王カルロス二世は血族結婚のため、
生来病弱で後嗣(こうし)がないまま急逝。
ここにスペイン・ハプスブルグ家は絶えてしまいます。
さて、その後の王位をめぐって
鵜の目鷹の目だったのは
ヨーロッパ諸国並びにイングランドでした。
これら諸国の思惑にスペイン国内問題が更に絡み、
何と「スペイン王位継承戦争」は14年に及びました。
結果、
フランスはスペインの王位を継承したものの、
戦争によって自国の力は削がれるし、
一方、新たなるスペインの「負の遺産」を
引き継ぐ事になったのです。
歴史の流れを見ていくと
マドリードの街が荒れ放題というのも当然頷けますよね。
余談ですが、この戦争による本当の戦勝国は
何処だったのでしょうねぇ…。
「王でありマドリード市長」であったカルロス三世
こうして負の遺産を引き継ぐ事になった
スペイン・ブルボン家の三代目、
「き、きたない!恥ずべき町」と仰せになった
カルロス三世は、マドリードの人々より
「王でありマドリード市長」と呼ばれました。
限定的ではありましたが、
公衆衛生、警備隊の設置、
街灯の設置並びに石畳の舗装など、
都市改革を行いました。
また、
「国家の繁栄は、文化と教育を通してなされる」と考え、
スペイン帝国を啓蒙活動によって立て直し、
様々な分野で周辺諸国に追いつこうと尽力したのです。
当事推進された都市計画
“Salón del Prado”(サロン・デル・プラド)は、
古いプラド通りを大改修し
それまでばらばらであった町と
離宮(現在のレティーロ公園)を
この道を通して統合させる。
またふんだんに樹木を植え、
噴水や彫像を配置する事によって
通りを美しく整え、
かつての「市民のくつろぎの場」を蘇らせる。
更に植物園、天文観測所や、
後のプラド美術館の前進である
自然科学分野の施設を建設し、
芸術、科学施設を集中させる。
このようにして
パセオ・デル・プラドが出来上がった訳ですが、
現代の他の大通りと比較しても引けをとらず、
当時のヨーロッパでは
最新流行だったようですよ。
全戦没者の慰霊碑
さて、ここまで
出発点のシベーレス広場から
10分ちょっとの距離を歩いてきました。
次の広場に向かって
左手奥の通りには
マドリード証券取引所が見えていますね。
道を左右に渡ると、ほどなく
「全戦没者の慰霊碑」が見えてきます。
この慰霊碑は以前、
スペイン独立戦争が始まった日、
1808年の「5月2日の英雄記念碑」と、
呼ばれていました。独立戦争については
サクランボの谷や、レティーロ公園でも
すでにお話しましたね。
スペインの独立を守ったこの戦争は、背後に
「フランス vs イングランド&ポルトガル」の構図があり、
複雑な様相を見せました。
長くなるので詳細は割愛致しますが、
ごく簡単にご説明しますと、
スペインの支配層における
親仏派と反仏派の政治的な対立があり、
宮廷革命、日本で言うお家騒動に発展。
その隙を狙ったナポレオンが、
スペイン国王や皇太子を退け、
自分の兄ジョセフを王に即位させようと
画策していていく…。
ナポレオンの支配に対して
マドリードの民衆は反仏暴動を展開しますが、
強力なフランス軍に敵わずあえなく鎮圧され、
翌3日には多くの市民が銃殺される結末を迎えます。
しかし、これを境に全国的な独立戦争となり、
翌年にはあのサクランボの谷ヘルテでも…。
マドリードのこの凄惨な一連の出来事は
後にスペインの偉大なる画家の一人、
フランシスコ・デ・ゴヤによって
『5月2日』、『5月3日』両作品に描かれていますので、
ご存知の方も多いと思います...。
それでは独立戦争の経緯はここまでにして、
広場へ行ってみましょうか。
「カノバス・デ・カスティージョ広場」
こちらは
“La Plaza de Cánovas del Castillo”
「カノバス・デル・カスティージョ広場」です。
道は、この先もう少し続きますが、
お約束通りお散歩としては
プラド美術館があるこの広場が
最終地点となります。
では広場周辺をさらっとご紹介してから
美術館前まで行ってみましょうか。
中央には
“Fuente de Neptuno”「ネプチューンの噴水」が、
力強く、そして優雅に水しぶきを上げ、
広場を囲む瀟洒な建築物と
見事に調和しています。
車に気をつけながら
もう少し噴水の近くへ行ってみませんか。
ご覧下さい。
鬱蒼と茂る大樹を背景に、
冠をかぶったネプチューンは
夕日を浴びて黄金色に染まっています。
ざーっと水しぶきを上げる水音も聞こえますね。
よく見てみますと、
貝の山車を引くのが馬なのは、
「海神」であるネプチューンが
同時に「馬の神」と言われている所以でしょうか?
今度は噴水から振り返りますと、
左右に広がる瀟洒な建物が角地に見えますね。
こちらは1912年(大正2年)に開業の
高級老舗 “The Westin Palace”、
通称「パレス・ホテル」です。
確かシベーレス宮殿の展望台からも
良く見えていましたよね、このホテル。
スペインのホテル事情に関しては、
1880年代になると鉄道技術やその品質が向上し、
国内外から首都マドリードへ
様々な旅行客が押し寄せてきました。
しかし宿泊所が供給不足で、
当初は下級の宿や、個人宅に泊めてもらう始末。
色々当時は苦労があったようです。
このホテルのように高品質で快適なホテルは、
20世紀に入ってからです。
ホテルの一階の奥には
“Jardín de Invierno”(ハルディン・デ・インビエルノ)と、
呼ばれるラウンジがあります。
冬の庭園(サンルーム)を意味する
丸屋根のついたラウンジは、
白と水色を基調としたアール・ヌーヴォー様式。
昼間、ここへ行ってみますと、
頭上のステンドグラスから
品の良い光りが全体を柔らかく包み込み、
ゆったりとお茶の一時を楽しむことが出来ます。
それから通りの反対側、
上部に三角形の切り妻壁、
その下には円柱で支えられている建物は、
“Congresos de Los Diputados”
(コングレソス・デ・ロス・ディプタードス)
国会の下院にあたる「代議院」です。
「国会」という言葉は、
国によって歴史的背景が違うのか
その呼び名も色々ですね。
スペインの場合は、中世の聖職者、貴族、
市民代表の「身分制議会」である名残で、
“Las Cortes”(ラス・コルテス)と呼ばれます。
プラド美術館
シベーレス広場から
歩いて来た散歩道「パセオ・デル・プラド」。
どうやらプラド美術館へ漸く辿り着けそうですね。
ところでここプラド美術館では、
豊富なコレクションを所蔵していますが、
お目当ての絵画はありますか?
えっ、私...ですか?
うーん。特定しようとすると、
とても迷うので難しいのですが…。
静物画の世界
そうですね...。
「静物画」にも、
とても興味がありますよ。
画家の身近にある素材をどのように表現するのか。
例えば、花や本、楽器類や台所で手に入る食材、
器をモチーフにしたものですね。
但し近代以前の静物画を鑑賞する際には
宗教画のように
モチーフにメッセージが込められていますので、
それを読み解く知識が必要となりますよね。
絵画の話題からは逸脱しますけれども、
写真の世界でも画家と同様、
静物を撮影する際には
構図や写真家の描写力が求められるのです。
スペインの巨匠達
プラド美術館。
ここにはリュベンス、ティツィアーノ、
エル・グレコ、スルバラン、ムリージョ...と、
まだまだとても貴重なコレクションがあるので、
すべてを鑑賞するには、
相当のエネルギーが必要ですね。
しかし何と言っても
スペインを代表する巨匠と言えば、
やはりベラスケスとゴヤでしょう。
とりわけ
17世紀に活躍したベラスケスについては、
後にゴヤが師と仰ぎ、フランス印象派モネも
非常に影響を受けた一人であり、
「画家中の画家」と言わしめた事はつとに有名です。
ベラスケスとゴヤ。
お二人の名を西和辞典で引いてみると
“velazuqueño”(ベラスケーニョ)、
“goyesco”(ゴジェスコ)と、
彼等の名前がついた言葉が載っています。
これらは
「ベラスケスの(風)」とか「ゴヤの(風)」の意味で、
各作品や様式、特徴、
またゴヤが生きた時代を指す場合に使われます。
ではゴヤの場合、
スペインではどんな時に
このゴジェスコが使用されるのでしょうか。
例えば「ゴヤ風闘牛」と言うのがあります。
ゴヤが生きた時代に行われた闘牛の事で、
闘牛士は当事の服装で行うものです。
それから「ゴヤ時代の服装」も
ゴジェスコが使われます。
時代は異なりますが、日本でしたら
さしずめ「竹下夢路時代の着物」と言った
表現になるのだと思います。
ゴヤの生きた
18世紀末から19世紀半頃と言えば、
フランス支配下の影響があったのは
もうご存じですね。
スペインらしさの中にフランス的要素の入った
お洒落で粋な服装が、
マドリードのブルジョア階級から
やがてスペイン全国へ広がっていったようです。
そして現在もお祭りの行事で
ゴヤ時代の闘牛や服装が、
伝統文化として継承されることは
素晴らしいことだと思います。
あらあら...。
あれもこれもと欲張ってお話をしました。
この散歩道では
2つのスペインの王朝や、
またスペイン王位継承戦争、
スペイン独立戦争のお話が絡んだので
少々お疲れではありませんか。
ではこの辺で
シベーレス広場へ戻り、一休み致しませんか。
*** *** *** *** *** *** ***
休憩場所へようこそ
第二部、
散歩道「パセオ・デル・プラド」のお話が終了致しました。
ご覧頂きましてありがとうございました。
ここでまた一旦
「休憩時間」のご案内をさせて頂きます。
どうぞこちらで、
気分転換をなさって下さい。
この後は
北への散歩道をご案内していきます。
また最後には
私の好きな地中海の風景も合わせて
ご紹介していきたいと思います。
どうぞごゆっくり♪
*** *** *** *** *** *** ***
北へ延びる道
「パセオ・デ・ロス・レコレトス」と「パセオ・デ・ラ・カステジャーナ」
一休みした後は、
今度は広場から左手へ、
北へ延びる通りをご案内致します。
この道は、すでにご覧になった
パセオ・デル・プラドと比較すると、
所々に歴史建造物があるものの、
省庁や企業が集中している地域なので、
特徴としては現代建築が並び、
また交通量も多い散歩道と言えます。
それから、
次のコロン広場手前まで
カフェ・テラスが幾つか出ていますから、
後ほど一端テラスで休憩致しましょうか。
歩き始めとしては
季節はずれの風景になりますが、
まず、X´masの風景を
ここでご紹介したいと思います。
趣向を凝らしたイルミネーションが点灯され、
とても華やかになります。
12月のイベント時期では、
買い物客が集中する中心街よりも、
こちらの通りは落ち着きのある
散歩道といえます。
そして、
シベーレス広場から東に延びる
アルカラ通りになりますが、
こちらのアルカラ門のライト・アップも
とても華やかですよ。
X´masの景色はいかがでしたか。
それでは、深緑の季節へ戻しましょうね。
文学カフェ 「カフェ・ヒフォン」
さて、
広場から歩いて数分の場所に
カフェ・テラスが幾つか続いて見えて来ます。
実はこの先に
世界的に名の知れた有名なカフェ
“Café Gijón(カフェ・ヒフォン)があります。
このお店を知ったのはもう随分前のことでした。
カフェ・ヒフォンを知るきっかけとなったのは
マドリードを愛する地元の画家から
次のようなアドバイスを受けたからでした。
(マドリード市街図で見所を指しながら)
画家 : 「もし一週間でマドリードを知りたいのなら、
見ておかなくてはならないのはここと、こことここ。次に…」。
教えてくれた場所は確か、
まずは画家らしくプラド美術館。
次に印象派の画家の邸宅を開放した
ソロージャ美術館。
それから…。
シベーレス宮殿、
旧市街にあるマジョール広場に、
この近くの国会図書館。
また王宮やその前に位置する
オリエンテ広場のカフェや、
現在はゲイ・タウン地区にある
居酒屋”Casa Ángel Sierra”(カサ・アンヘル・シエラ)。
そしてこのカフェ・ヒフォンでした。
勧めてくれた具体的理由とは歴史的な文学カフェであり、
毎年、スペイン及びラテン・アメリカに関係した文学賞、
カフェ・ヒホン賞が授与される由緒ある場所だからです。
この「文学カフェとは何か?」を説明するには、
やはり店が開業した当時のスペインの世情を
お話しなくてはなりません。
店が扉を開けたのは、
1888年(明治21年)のことでしたが、
当事は中心街から離れた場所にあるものの、
涼しげな散歩道を求めて
徐々に人々が集まるようになりました。
19世紀後半は農民、労働運動や
政権が何度も交代する「混沌とした時代」であって、
また海外領土での独立戦争が起こるなど、
あちらこちらで不協和音が鳴り響いていました。
こうした流れの中、20世紀初頭になると、
作家、芸術家、政治家等、知識階級の常連達が
文学カフェをたまり場として集まり始めます。
テーマは文学や闘牛だけに留まらず、
王政廃止を唱え、共和政の夢を語る。
こうした集まりをスペインでは”Tertulias”
(テルトゥリアス)と呼びます。
特徴は、
「会議と違って問題解決を目的とせず、
自由闊達に意見を述べ、
考えを体系付けることに意義がある」としました。
このカフェでは、
彼等のテーブルを囲む野次馬達に、
コーヒーやタバコの香りのする光景...と、映画のような
熱気溢れるシーンが展開されていたのでしょうね。
カフェ・ヒフォン。
ここには有名な文化人や政治家も通い、
その流れは今でも続き、
彼等が気さくに立ち寄っていく姿が見られます。
日本ではこの店を訪れた有名人として
アメリカの作家アーネスト・ヘミングウェイが
良く知られているようですが、
その他にもそうそうたる面々が訪れています。
画家サルバドール・ダリと
詩人、劇作家であるガルシア・ロルカ。
映画『アンダルシアの犬』、『糧なき土地』の
スペイン人映画監督ルイス・ブニュエル。
第一次世界大戦で活躍した女スパイ、マタ・ハリ。
アメリカのハリウッド女優エバ・ガードナーと、
もう枚挙に暇がありません。
エル・エスペホ
さて、もう一軒行ってみましょう。
近くに”El Espejo”(エル・エスペホ)、
「鏡」と言う名のお店がカフェ・テラスを出しています。
そこで一休み致しませんか。
レストラン&Barはテラス背後に位置しており、
お店の壁の装飾には
アール・ヌーヴォ特有の鏡を何面も配した
凝った作りになっています。
お話ししているうちにテラスに到着です。
それでは入ってみましょうか。
今日は比較的空いているようですね...。
何処でもお好きな場所へどうぞ♪
明るい陽光が注ぐスペインのカフェ・テラスには
エスプレッソ・コーヒーの良い香りが良く似合いますが、
近年マドリードではTea専門店で
お茶を飲むスペイン人も大分増えました。
それからお気づきでしたか。
テラスにはもう1つ、白と緑を基調にしたタイルに
ガラス張りの小粋なパビリオンもあります。
中は景色がゆったり見られるテーブル席と
Barに分かれています。
ところで、
椅子にそのまま腰掛けたままで
ここから国会図書館を
ご紹介しようと思うのですが、
車道の向こう側の建物を
ご覧になれますか。
そうです。あの立派な建物です。
国立図書館の歴史は300年以上と古くて、
1712年にFelipe V(フェリーペ5世)によって
公共の為に創設された王室図書館に始まりました。
世界でも重要な図書館の1つと言われるように、
文豪セルバンテスによる
小説『ドン・キホーテ』に関するコレクションがあります。
部屋にはいかにもスペインらしく
各分野ごとに「セルバンテスの部屋」、「ゴヤの部屋」など、
巨匠達に因んだ名がつけられています。
そう言えば、
ここの一般閲覧室で
初めて調べ物をした日の事を思い出しました。
かつての中央郵便局であった
シベーレス宮殿と同様、
閲覧室の格調高い作りに興味津々で、
机のスタンドに照らされた目の前の本よりも、
顔を上げては天井や、壁の装飾に
つい目が向いてしまうのです。
スペイン人にとっては
慣れきった日常風景なのでしょうが、
室内を眺めては
「あら、いけない」と我に返り、
手元の開かれた頁に目を再び戻す。
結局は、同じ箇所の文を
何度も目で追っていたのですよね。
まぁ、すみません。
長々とお喋りをしてしまいました。
それでは席を立って、
レストラン「エル・エスペホ」の入り口も
ご紹介しておきますね。
下の扉をご覧下さい。
アール・ヌーヴォーの
連続した曲線の美しい扉。
ガラス越しにうっすら見えるのは
黒ベストに白のエプロン姿のウエイターの男性。
お客さんの姿も見えます。
スペイン人は、
こうして立ち話をするのが大好き。
それから扉の両側には
当店のお勧め品が額に掲げられていますね。
右側上からコンソメ。新鮮な魚。肉。ケーキ類。
左側は、アニス酒。高級銘柄のコニャク。ビール。
パビリオンでの軽食やタパス(小皿料理)も良いですが、
レストランでのお食事も美味しそうですよ。
コロン広場
テラスを出て目の前に現れるのが
「コロン広場」です。
シベーレス広場から歩いて
15分ほどの距離でしょうか。
広場の中心には
クリストファー・コロンブスの像が高く聳えています。
ネオゴシック様式の台座より
更にずっと上に立つマント姿のコロンブス。
片手を広げ、もう一方の手には
かつてのスペイン・カスティージャ王国の旗。
そして膝元には丸い地球儀。
さて、このコロン広場。
平日は四方八方から車が集中する為、
市の警官が頻繁に交通整理を行っています。
また、ここを車が間違いなく
目的地へ進むには経験が必要で、
他県の車は「あれれ、曲がれないの?!」と、
往生する広場でもあります。
そのような訳で、
遠くを見つめるコロンブスも
足元を走り去る車にもご用心!
広場を赤い二階建てバスが
観光客を乗せて通過していきます。
バスが運行するCity Tourは、ルートが2つ。
1つは旧市街を中心に、もう1つは、主に19世紀後半に
拡張した市街中心のルートです。
どちらのルートもこのコロン広場や
プラド美術館が含まれています。
常日頃、『一度はこのバスに乗って、
高い場所から自分の知らないマドリードを見たい!』と、
思っておりましたが、
すっかり乗り忘れて帰国してしまいました。
思いついた時に乗車しないといけませんね。
この広場で
コロンブス像の他にもう1つ目を引くのが、
広場の一角に1976年に建てられた
“Torres de Colón”(トーレス・デ・コロン)があります。
こうしてマドリード市を
一望出来る公園から見ますと、
周囲の建造物に比べて
一際目立つ建物の上部。
これを「大魔神の兜のよう」と表現した
日本人がいました。
大魔神ってご存知ですか?
「カステジャーナ通り」へ
さて...。
お伝えしませんでしたが、
コロン広場からは道の名称が変わって、
今は「パセオ・デ・ラ・カステジャーナ」を歩いています。
またここからは通りの名が長いので、
「カステジャーナ通り」と呼んでいきますね。
この先にはホテルやデパート、
会社のビルなどの他、
またサッカーでお馴染み
「レアル・マドリード」のスタジアムも
この通りに面しています。
でも最後まで歩きますと
とても長い距離があるので、
お散歩気分が何処かへ飛んでいきそうです。
こでお散歩の最後には
近くのソロージャ美術館へ
寄るのはいかがでしょうか。
この美術館はカフェ・ヒフォンでお話した
「画家による一週間で見るマドリード」のリストにも
入っていた美術館でした。
ただ、この通りの北端の様子も
語らないのは心残りです。
やはり、ここでご紹介しておきましょうか。
では歩きながら、
手元にある写真でお話をしていきます。
まず上の写真、右手をご覧下さい。
ビル郡が林立している「カステジャーナ広場」。
裁判所のある広場で、また内側に傾斜した対のビル
“Puerta de Europa”(プエルタ・デ・エウロパ)
「ヨーロッパ門」が見えています。
ヨーロッパ門前の横断歩道。
信号待ちで立っておりますと、
やはり今にもビルが迫って来そうです。
次にケーブルカーから左手に見える摩天楼です。
こちらは2008年に全ての建設が完了した
“Cuatro Torres Business Area “
「四つの塔のビシネス・エリア」です。
意外に思われるかもしれませんが、
マドリードでも、またヨーロッパでも
高層建築はそう多くはありません。
それから、
4つでなく3つのビルしか見えないのは
左端のビルが重なっている為で、
角度によるマジックです。
それからもう1つ。
全体風景の写真からは見えませんが、
写真中央にはスペインの北西方面へ向かう
鉄道の「チャマルティン」駅があります。
最近はどうなのでしょう?
フランス・パリ行きはまだここが始発でしょうか。
マドリード市内の公共交通機関は、
主にバスと地下鉄ですから、
夜の帳が落ち、
線路に架かる大橋へ車でさしかかると、
ちょうど汽笛が鳴る事もあり、
とても旅情を誘ったものです...。
ソロージャ美術館へ
さて、
今回は南北2つの散歩道を歩いて来ました。
こうして見ますと、
南から北へと進むにつれて
建築も徐々に現代へと移っていきましたね。
ただし北端は最も現代的で、
また住宅街が多く
全体的な眺めとしてはどことなく淋しく、
町外れの様相は否めないようです。
あなたはどう思われたでしょうか。
さて
二つの散歩道のお話も済み、
また折良く美術館へ行く道
「ヘネラル・マルティネス・カンポス通り」への
曲がり角まで来ましたので、
ここからは美術館到着前まで
簡単にソロージャについてご説明していきます。
1863年、”Joaquín Sorolla”(ホアキン・ソロージャ)は
地中海都市バレンシアで生まれました。
ソロージャが活躍した時代は、
カフェ・ヒフォンでのお話のように、
スペインは19世紀末から20世紀初頭にかけて
政治・経済共に非常に厳しい時代でした。
一方、
鉄道の発達や、絵の具など画材の革新によって
戸外や旅先での制作が容易になった時代でもあり、
画家ゴヤ以降のスペインを代表する印象派、
ポスト印象派、そして色彩画家として活躍した画家です。
さて、到着です。
こちらがソロージャ美術館ですよ。
どうぞお入り下さい♪
美術館の庭は「マドリードに存在するアンダルシアの世界」
閑静な住宅街にあるこの美術館は、
彼の家族と共に生活し、
アトリエで制作する。
この2つを念頭に建設された邸宅でした。
そして邸宅は、
美術館として1932年に
未亡人の遺志によって一般に開放されました。
門から入ってきますと、
知らぬ間に
南部アンダルシア地方の庭園に
佇んでいるような気分にさせてくれる空間、
それも特徴ある3つの庭園が、
次々と私達を迎えてくれますよ。
ここはマドリードにあるアンダルシアです。
最初の庭園は、
都市セビージャ(セビリア)・アルカサールの
庭園要素が感じられ、
2番目は、
グラナダのアランブラ宮殿内、
ヘネラリーフェ庭園の灌漑を
髣髴(ほうふつ)させ、
さらに奥へ進むと
イタリアの石柱、
アラブ式の溜め池や、
つる棚が配置されています。
また所々に
像を配置したこれらのデザインは、
全てソロージャ自身によるものです。
庭作りの為に夫人を伴って
スペイン国内数箇所を丹念に巡った結果、
彼の心を射止めたのは
アンダルシア地方の庭園でした。
そしてこれら3つの庭園を、
絵画のモチーフとして作品を制作する際、
様々なフレーミングを作り出せるように
壁で仕切らぬデザインを採りました。
彼は晩年を
こよなく愛したこの庭園で過ごし、
庭園をモチーフとして描いた作品数は、
少なくとも60点以上に上ります。
庭園に置かれたソロージャの彫像。
ホアキン・ソロージャ(1863年-1923年)。
庭の奥にある美術館への入り口にも
青・緑・黄色の絵タイルが張られています。
また建物にはもう1つ庭があります。
こちらの階段手前を左へ進むと、
アンダルシア・スタイルのパティオ(中庭)が
建物奥に設けられています。
こちらも後ほど見てみましょうね。
さて
館内の作品についてご説明致しますと、
幾つかに仕切られた部屋には、
外光派のソロージャが描いた
海辺の風景や海洋風俗、
家族の肖像画を中心に展示されており、
また
画家の一大プロジェクトであった
New YorkのThe Hispanic Society of America内を装飾した
14枚もの大パネル”Visión de España”
「スペインのビジョン」の為の習作も展示されています。
モチーフは8年もの間、
スペイン各地を旅し、
伝統的な民族衣装を纏った人々を描いたものです。
今度は、奥のアトリエの様子をご紹介しましょう。
高い天井。
窓から入る自然光のもと、
広々とした部屋には絵筆やパレット、愛用した調度品類、
また右手奥には天蓋付ベッドも置かれています。
ソロージャの
実際の仕事場であったこのアトリエでは、
鑑賞者は彼の描いた作品の美しく鮮やかな色彩や、
そこから自分に発して来る大きな力に
誰もが感動するようです。
では、
アトリエを出て廊下へ進みましょう。
こちらが廊下部分です。
手前に見える
階段の親柱の上には子供のブロンズ像。
奥の白壁には
庭園をモチーフにした風景画。
その下には壺の置かれたニッチ。
右手には窓も見えますね。
外は、先ほど見えた
パティオになっています。
ちょっと眺めてみましょうか。
シンプルで
すっきりした美しさですね。
中央には六角形をした噴水でしょうか。
タイルは白と青の組み合わせ。
その上にはテラコッタの植木鉢。
全体的な色合いもとても爽やか。
南部の都市コルドバや、
セビージャ(セビリア)へ行きますと
南国と感じられる1つには
棕櫚(シュロ)やナツメヤシの木々が茂っているからで、
ソロージャもアンダルシアの雰囲気を
マドリードの自宅で味わいたかった一人と、
思いませんか。
パティオのある横のお部屋には
スペイン陶器が棚に飾られています。
さぁ、それでは
階段を上っていきましょう。
途中踊り場には
彼の3人の子供の絵が
他の作品と共に掛けられています。
また上の階は
家族の寝室であった場所で、
現在は展示室になっています。
素描の数々。
ソロージャは
夫人をモデルに数多く描いていました。
印象派の特徴とも言える
家族や友人の肖像画はもちろんですが、
それらの作品からは、
特に夫人への深い愛情が感じられ、
また絵画の中の夫人の眼差しや仕草からも
夫への愛情が同様に伝わってきます。
幼馴染であった二人は
常に共に生きた二人でもありました。
夫人は恋人から妻へ、そして子供達の母親であり、
また絵のモデルとして、
更には展覧会に関する事務処理をこなす仕事仲間でもありました。
芸術家を支える夫人は、心身共に大変だった事でしょう。
階段を下りた場所からは
家族が暮らした住居部分になっています。
彼等がそうしたように
サロンの広い窓辺に近づいてみませんか。
こうしたお天気の良い日は、
窓から降り注ぐ
光のシャワーが浴びられますね。
いかがですか...。
こちらが食堂。
奥には大理石の暖炉。
ブロンズ像や陶器が飾られています。
部屋中央には
木彫りテーブルと対の椅子。
上に敷かれたセンターは、
スペイン刺繍でしょうか。
上には銀のボールと燭台も。
そしてこちらは玄関。
美術館を一巡りした後の感想になりますが、
館内のそこかしこに
家族の肖像画が飾られているせいか、
在りし日の彼らの生き生きとした姿が
玄関や食堂、サロンに今にも現われるようです…。
さて、美術館はお気に召しましたでしょうか。
ここからは個人的な意見になりますが、
ソロージャの作品は
海辺の風景がとても印象的でした。
特にアトリエの壁中央に掛けられていた
縦横2メートル程の油彩画、
「海辺での散歩」(1909年)。
New Yorkの展覧会で大成功を収めた頃の作品で、
彼の絶頂期の一枚です。
「海辺での散歩」。
バレンシアの海辺で、白い服を纏った母と娘の歩く姿は、
とてもエレガント。白い日傘を手に持ち、
風にはらむベールを抑えるクロティルデ夫人。
その少し前を、飾りのついた麦藁帽子を手に、
アップにした髪を風になびせて歩く長女マリア。
白い服や傘、ベールなどはディフューザー、
つまり光りを拡散する役目をしていますね。
絵画の中の二人を見つけて、
この絵の虜になる女性はきっと多い事でしょう。
そう言えば、
ソロージャの作品に始めて出会った日の事を
今でも良く思えているのですが、
スペインに来てから
それはかとなく感じていた独特の光と影を、
見事なまでにキャンバス上で
表現されているのを目の当たりにして
『これなんだわ、感じていたのは!』と、
答えを見つけて嬉しくなりました。
それでは画家ソロージャの心を捉えた
美しい地中海の景色をご紹介しながら
美術館を後に致しましょう。
光の魔術師によるアリカンテの海辺
ソロージャは
故郷バレンシアの景色だけでなく、
更に南に位置するアリカンテ県
“Jávea”(ハベア)へ1896年に訪れていました。
沿岸にあるこの村は、
240kmほど続く”Costa Blanca”(コスタ・ブランカ)
「白い海岸」の北部に位置し、
上に見えるサン・アントニオ岬や
幾つかの岬に囲まれ、
とても風光明媚な場所です。
特に夕日が照らす時刻には
海岸の「凝灰岩(ぎょうかいがん)」が赤く染まり、
ここの風景は昼間とはまた違った
別の美しさに変化していくのです。
ある年の12月、
私はハベアに数日間でしたが
滞在した事がありました。
ここは年間晴天日数が300日以上、
平均温度が摂氏20度と、
冬場も快適な場所です。
午前中に、
暖かな光を肌に心地よく感じながら
ハベア港へ出かけて見ました。
ハベア港は、サン・アントニオ岬が
背後に聳える天然の良港で、
また漁業商品の取引所
“Lonja”(ロンハ)があることから、
遠く離れた港の船からも
ここで水産物が水揚げされます。
取引所では
午前と午後にせりが公開される為、
観光スポットの1つとして
人々で賑わっていました。
日本でも同じ。港周辺の店先に並ぶ
魚介類を見学し、購入するのも楽しいですよね。
ハベアでは、真鯛、鯖、モウゴウイカ、蟹、鰯、
小型の海老、蛸、アンコウ、ヒメジ…。
それに、この地方のお米料理
魚介パエジャ(パエリア)の花形、
ヨーロッパ・アカザエビも見られます。
ところで、
取引所から離れて
埠頭で歩いている途中でしょうか。
何人かの漁師さん達が、
魚網の手入れをしているのを見かけました。
昔も今も変わらぬ姿です。
ソロージャも彼の故郷である
バレンシアの浜辺を舞台として、
漁を終えて帆を外し、
浜辺へ取り込む漁師の様子や、
数人で帆の繕いをする姿を描いています。
キャンバスの中の漁師達の面差しは
厳しく、日焼けした肌は赤銅色。
針を持って繕う手の先には
浜に広げられた大きな白い帆布。
そこには反射した波打ち際の海の青に、
砂浜のオークル色、そして強い黄色い日の光に
濃い影になった紫色がのせられていました。
ところで午後になって、
私は湾の右手に見える
ナオ岬の灯台まで上ってみました。
しばらくの間
穏やかな海を眺めておりましたら、
気づかぬうちに太陽は灯台や壁の白を
徐々に琥珀色に染め始めていました。
その時、『ああ、そう言えば…』と、
ソロージャが留守番をしている夫人宛に
綴った手紙の内容が心に浮かんだのです。
『ハベアは荘厳で雄大、
描くのに知っている場所では最高だ。
…あと数日いようと思う。
もし君がいたのなら、2ヶ月』。
そして続けて、
『…しかし、何と言う海!
サン・アントニオ岬は別格の美しさ…』
彼は、
岬のむき出しになった断崖を
赤みがかった巨大なモニュメントに例え、
またきれいな水の色は澄み、
輝くようなエメラルド・グリーン色であると
ハベアの美しさに感動したようです…。
本日ラストの写真
夕暮れのハベアの海辺では、
先ほどまでの抜けるような青空から薔薇色へと、
光の魔術師によるショーが始まりました。
驚いた事に、
実際カメラで海を撮影してみると
色彩画家がキャンバスにのせた
色合いと同じでした。
そして港の向こうには
あのサン・アントニオ岬の
きらきらと輝く赤い凝灰石の断崖が...。
巨大な岬の先端近くには
帰港する一艘の漁船がとても小さく見え、
ゆらゆらと動いています。
その姿を見て
なぜかとても愛おしく感じたのは
私だけでしょうか...。
それでは今回のお話はこの辺で♪
*** *** *** *** *** *** ***
ブログ後記
いつも最後までご覧頂きまして本当にありがとうございます。
最後は地中海の雄大なる景色で終えたブログ、
いかがでしたでしょうか?
今回はテーマ「道」(V)のシリーズ、
マドリードの二つの散歩道を中心にお届けいたしました。
次回ブログの内容については只今思案中です。
アップまでどうぞお楽しみに...。
初稿公開日:2015年2月21日
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