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初稿公開日:2014年10月2日
トレドを防衛するマドリード
「トレドがあるからこそ重要な場所になった」
その場所とは...。
それは現在のスペインの首都
「マドリード」のことなのです。
トレドは「古都」と表現されるように
とても長い歴史のある町です。
ローマ時代から、そして
その後のキリスト教国
「西ゴート王国」の首都でもありましたから。
ところでよく
「A市とB市は姉妹都市である」と言う
言葉を耳にしますね。
その意味合いは異なりますが、
歴史的観点から例えれば
トレドは年が離れたお姉さん。
そしてその後、誕生したのが
妹のマドリードなのです。
妹は健気で、とてもお姉さん思い。
ですが、この妹のマドリードが生まれた
9世紀後半のスペインはどのようであったでしょうか。
イスラーム教徒によって、
スペイン北西部へと追いやられたキリスト教徒が、
その地でアストゥリアス王国を建国し、
かつての彼等の土地を、
そして首都であったトレドを奪い返そうと
徐々に勢力を回復した時期にあたります。
また、
お姉さんの町トレドがある街道は、
今から2000年ほど前に建設された
ローマ時代の主要な「街道」の1つであり、
イスラーム教徒はこの既存のローマ街道を利用し、
必要であれば新たな町を建設し、城塞を建て、
自分達の領域「アル・アンダルース」を
防衛しました。
こうして妹マドリードは、
お姉さんの町と、
その長い街道の中央部を守ると言う
とても強い使命を帯びて誕生したわけです。
ただし歴史学者によっては、マドリードは、
外敵の他に、内乱の監視役であったと唱える人もいます。
この頃、アル・アンダルースの中央政府に対して、
トレドの人々は他の都市と共に彼等の処遇を巡り不満が募り、
その結果、度々謀反を起こしたのでした。
ですから、ご覧頂いている姉妹のように
常に仲良しではなかったようですよ……。
それでは、まずは
マドリードの町がどんな場所にあるのか、
私の「マドリードの思い出」の中から
お話をしようと思います。
空港から市内へ
人は見知らぬ町に到着した時、
その町を知りたいという欲求に
駆られるものですが、この私もそうでした。
マドリードの郊外、北東十数㎞の位置にある
マドリード・バラハス国際空港へ
初めて降り立った時の印象は、次のようでした。
『なんて乾いた大地...。でも、市内はどうなのかしら』。
市内に向かう途中では、
車窓から見える立て看板を眺めては、
旅立つ前に何度も眺めた
ガイドブックの市内写真を思い出し、
今、見て来たばかりの空港周辺の景色と
これから観るマドリードが、
一体どのように頭の中で繋がっていくのかと
心をときめかせた事を覚えています。
時は流れ、
マドリードの生活にも慣れてくると、
暇を見つけては、
あちらこちらと探索しました。
その結果、やはり歩くのならば町の南西にある
旧市街「セントロ」地区が
自分にとっては一番楽しく、
時間が出来るとよく出かけていきました。
この地区にある石畳の大きな広場を歩き、
教会の鐘楼を見上げ、
時には立ち止まって
古めかしい居酒屋の看板や、
通りの名前のついた絵タイルを眺める...。
こんな風にマドリードの歴史の香りが
随所から漂ってくる場所なのです。
メセタ上に建つマドリードの町
ある日、いつもと同じように旧市街の街角で
漠然と信号待ちをしていた時でした。
ふと、「これでは、木を見て森を見ずだわ!」と、
マドリードの町全体を未だこの目で
確かめていなかった事に気づきました。
『ええと、マドリードの町全体が見える場所は何処かしらねぇ…』。
更に、考えを巡らします。
『...確か王宮のある場所のすぐ下は、
マンサナーレス川の谷になっていたはず...よね。
あの辺りに行けば町全体が見られるかも...』。
マドリードの南西の端には壮麗な王宮に、
隣接したアルムデナ大聖堂、
それにここアルメリア広場があります。
そして広場の端まで行き、
町の中心街の外を眺めてみます。
木の塀の外はすぐに河谷で、
その向こうに見えるのが
広大な緑の森”Casa de Campo”
「カサ・デ・カンポ公園」。
そして
この辺りに昔、イスラーム教徒が建てた
監視塔が存在したのでしょうか...。
確かに、地平線上に見える
「中央山系」の山々の向こうから
来襲するキリスト教徒の動きを
いち早く見つけるのにはもってこいの場所です。
でもこの広場からでは、
マドリードの町全体を
把握する事は出来ませんでした。
木も見て、森も見る
『あっ、そうだわ。向かいに見える
あのカサ・デ・カンポ公園なら...♪』
やはり見えましたね。
メセタ上に立つマドリードは、
ヨーロッパの首都でも一番海抜が高く、
650m以上あるのをご存じでしたか。
現在のマドリードの外観を見ますと、
かつて妹のマドリードが誕生した
面影はもうありません。
しかしこの公園からは、
ひな壇上になった今のマドリードの姿が、
各広場を基に
道が放射状に広がる古い地区と、
後方には都市計画によって出来た
碁盤目上の新市街が一緒に重なり、
また数多い波打つ坂からは
高いビルも
幾分かがんだように低くなって...、と
普段、街中を移動する際に
目にするマドリードの町とは、
別の素顔を堪能する事が出来ました。
さて、
マドリードの全景は楽しまれましたか。
それから、
妹・マドリードの使命であった
丘からの監視目標は、
マンサナーレスの谷や「中央山系」のグアダラーマ山脈でしたが、
西には美しいグレードス山脈が横たわっています。
ここではそのグレードス山脈と、
そしてもう1つは、
ローマ時代に建設された街道に関連した
お話をしようと思います。
尚、妹マドリードが守っていた街道の中央部、
特にトレドに関しましてはすでに前回お話済みですから、
今回は道の両端に位置する2つの都市を
中心にご紹介致します。
それから、途中で2度休憩の場所を入れてありますが、
ボリュームがありますのでご自分のペースでご覧下さいね。
どうぞゆっくりお楽しみ下さい。
ローマ支配によるスペイン
それはそれは、遠い昔のことです。
スペインとポルトガルが位置する
イベリア半島が「ヒスパニア」と呼ばれていた頃、
地中海覇権を争っていたのが、
ローマとカルタゴでした。
彼等はこの半島でも争奪戦を繰り広げ、
紀元前201年、「第二次ポエニ戦争」が終結すると
ローマはカルタゴを
この半島から追い出しすことに成功するのですが...。
ローマはこの戦争がきっかけとなり、
半島全土を征服しようと決断しますが、
決して容易い事ではなく、
今度は先住民族達との200年に渡る
厳しく長い戦いが待ち受けていました。
その前途多難な征服を目指し、
ローマ軍団「レギオン」が
進軍する為に建設したのが、
当初の「ローマ街道」建設の目的なのです。
「エメリタ-カエサラウグスタの道」
この時代のローマ街道は、
体の血管のように幹線道路の他、
そこから分岐した細い支線道路が
網の目状に構築されて
半島全土に広がっていました。
イベリア半島を貫く幹線道路は、
合わせて6本が建設され、
その中の1本の道が、
下の地図で示された緑色のラインです。
スペイン中央部を斜めに横切るように
南西の都市メリダ-トレド-北西の都市サラゴサ間を
結ぶ重要な街道が、
“Vía Emerita-Caesaraugusta”
「エメリタ-カエサラウグスタの道」です。
ちなみに
現代の道路でも両都市を結ぶと
約700㎞弱の距離があります。
メリダへ帰るトラックの後ろを走りながら、
この道がかつて
「どのような場所を辿っていたのか」を
興味を持って調べてみたところ、
『あらら…?!』と、
壁にぶつかってしまいました。
何故かと申しますと、
大きな諸都市は別として、
町や通過場所の確定には諸説有り、
歴史家によっては
「街道の石畳も部分的には残ってはいても、
石の距離標識(マイルストーン)でさえも
見つからぬ...」と、こんな風に
頭を悩ませていたのです。
そう言えば
この「街道の石畳も...見つからぬ」で、
次のような事をふと思い出しました。
あれは、
マドリードから西へ350㎞離れた
山中の町を訪ねる旅の
途中の出来事でした。
街道から離れ小さな村々を
幾つも過ぎた頃だったでしょうか。
トレドを流れるタホ川に突然出会ったのです。
トレドから100㎞程下流だったのではないでしょうか。
タホ川を渡った向こうの岸辺には
何台かの車が停まり、
皆さん一様に記念写真を撮っていきます。
後でわかった事ですが、上の写真は
“Curia” 「クリア民会」の建物のポーチ部分で、
かつてこの川の流域に存在した
ローマ時代の町”Augustóbriga”
「アウグストブリガ」に建っていたものでした。
州都に次ぐ大きさの町であった
アウグストブリガは残念なことに
1963年、貯水池建設の為、
中世に作られた町と共に
今は水の中に沈んでいます。
ただ難を逃れたこのポーチや、
他所からの数本の石柱が岸辺に移築され
これらの遺跡だけが
ローマ時代の面影を残しているのみです。
歴史家の方々が悩まれていた
「何処を通っていたのか…」とは
こういう事例も存在する事なのですね。
今更ながら納得致しました。
山の支線道路
さて、
妹のマドリードが
誕生した背景の1つであった
「監視塔からの中央山系の眺め」がありましたが、
覚えていらっしゃいますか。
実は中央山系を構成している
このグレードス山脈の山中にも、
石畳の道が見られ、
当時の支線道路の1つではないかと
言われています。
グレードス山脈の自然風景
グレードス山脈は
マドリードからおよそ西へ180㎞、
高度2000~2500m級の山々が連なる
自然がとても美しい場所です。
それではしばらくの間、
写真を通してグレードス一帯を
散策して頂こうと思います。
まずは
小旅行の気分で、
朝の爽やかな景色からどうぞ。
いかがでしょう?
もう少し近寄って、
窓辺に手をついて眺めてみませんか。
窓の外にぐっと広がる山の景色です。
鳥の歌うようなさえずり。
それにひんやりした空気が
胸の奥にすーっと入る心地良さ。
眼下には、白馬の姿も見えますね。
今度は、ホテルの外へ出て
山の中を散策しましょう。
松やカシワ類が多い林...。
朝靄が消えた後の
日が差し込む小川。
山からの雪解け水。
川には鱒や、ブラックバス、カワカマス類の魚。
石橋と力強い川の流れ。
水しぶきを上げる豊富な水量は、
ダムからの放流でしょうか。
また珍しい山ヤギや、
黒ハゲタカ、イヌワシの生息地でもあります。
機会があれば、釣りや狩猟が好きな方なら
一度行ってみたい場所かも知れませんね。
そしてこんな場所も...。
辺りは静寂の世界。
移り変わりの速い山の景色。
湖水の緑に、たなびく雲の色。
この景色を
落ち着いた色調に演出するのは、
雲間からの柔らかな日の光。
変幻自在に
姿形を変えて行く雲の流れと、
不動の岩の風景。
そしてこちらは
夕暮れの時刻のホテルのBAR内。
穏やかに談笑する人々の声が、
心地良く耳に感じるのは、
今日一日山歩きをした
軽い疲労のせいでしょうか。
カウンター越しに
窓辺の風景に目を向ければ、
黄昏時の光りが徐々に、
一日の終わりを告げようとしています。
同じ頃...。
昼間歩いたあの山の、
木々を眠りに誘う夕暮れの雲が
静かに包み込んでいきます。
ホテルからの眺め、
そして森林浴の小旅行、
満喫して頂けたでしょうか。
さぁ、ここからは気分をかえて
グレードスの景色を
続けてご覧頂きましょう。
泉へ水を汲みに行った日の出来事
グレードス山脈へは撮影目的の他に、
山の美味しい湧き水も魅力の1つでしたので、
峠の手前にある泉へ
水を汲みに出かけた事がありました。
この日の撮影のお目当ては、
ちょうど峠を超えた向こうの小さな村々でした。
特に秋になりますと
山中を走る村道沿いに栗が実り、
四季の移ろいを感じさせてくれます。
ここは
山の斜面を利用した小さな村でした。
村に着くと、
まずはぐるっと歩いて見ました。
細くて急な坂を下りていきましたら
ちょうど村の人と出会い、声をかけます。
「こんにちは♪」
エプロンをかけた女性は、
幾分見上げた顔で
静かな声で挨拶が返ってきました。
うねるような狭い急坂。
苔で覆われた瓦屋根。
坂の上に張り出ている
木のバルコニーと漆喰壁。
村の中の昼時は人通りもなく、
しーんとしていて、
まるで何かが周囲の音を
全て吸い込むような静けさです。
ただ、
家々の煙突からもくもくと上る煙と、
薪の香りで村は包まれておりました。
さて、ここが村の目抜き通り。
煉瓦と石の組み合わせの村景色の中では
ちょっと目立った存在のキオスク。
お店は限られたスペースでも、
品揃えは充実していそうです。
昼食時間にお店を一旦閉めていたご主人。
午後からのお店の再開準備ですね。
ところで、道行く人も顔見知り。
ですから、挨拶も欠かせない様子でした。
『おや?...』。静かな村に、
突然バイクの音が轟きます。
下りてきたのは村の少年達でした。
こちらは家の修繕作業中かしら。
それから
村の伝統的な家に関しては、
正面に見える窓の大きさや、
壁の厚みから判断すると
厳冬に備えた造りになっています。
ぐるっと一巡りしたので、
昼食ぎりぎりの時間となってしまいました。
『まだ食べられるかしら』と幾分心配しながら、
1件のレストランにそーっと入って尋ねると
女主人が首を縦に振ってくれます。
どうやら母と娘で切り盛りをしているようでした。
レストランでは、
老いた母が料理の火加減を見るため、
煉瓦作りの竈(かまど)の横に腰を掛け、
じっと番をしています。
黒い服に身を包んでいるのは、
ご主人の死後、ずっと喪に服しているのでしょう。
村でもそして都会でも未だ見かける姿です。
やっとテーブル前に座った私は、
一息ついてほっとしたのか
彼女のように竈にくべた薪の火を眺めながら、
この村に向かう先程の出来事を
思い出していました。
それは、
泉で水を汲んだ後の事なのですが、
実はちょうど峠にさしかかる地点で霧が発生し、
展望台で足止めされてしまったのです。
『さぁ、どうしたものかしら...』と思案していますと、
白い世界の何処からか、かすかに
「カラン、コロン...、カラン...」と、
かわいらしい鈴の音が響いてきます...。
耳をそばだてると音は上から下へ、
それも徐々にですがこちらへと
近づいて来るようでした。
どのくらい時間が経ったのでしょうか。
15分か、いやもっと...、
30分位だったもしれません。
そして視界が開けてくる頃には、
何やら集団で移動する動物の気配がありました。
やがて眼下には、
急坂のローマ街道を下りる
首に鈴をつけた山羊、そして仲間達が、
途切れ途切れになった霧の間から
見え始めます。
また彼等への合図なのか、
独特の声を発しながら
山羊飼いの男性も見つけました。
過去から面々と続いてきたスペインの牧羊風景。
ですが霧の中から現れ、
また目の前から消えて行った
幻想的な群れの姿に、
『あの光景は本当に現実だったのだろうか...』と、
今でも記憶に残る不思議な光景の1つになっています。
この地域では、
年々人数が減少している山羊飼いの人々。
峠から見たあの風景も今後、
中々見られなくなってしまうのかも知れません。
そして、
霧もすっきりと晴れ
ほどなく彼等が去った後。
スペインに生息する
珍しい山ヤギの亜種が
そこに姿を現しました。
険しい岩の斜面を
敏捷な動きで下りるので
彼等の姿を目で追っていくのが大変です。
餌探しなのか、霧が晴れるのを
何処かでじっと待っていた様子でした。
下山途中では、
もう1つ別の村を訪ねてみました。
ある家の柵に
上のような馬蹄を見つけました。
「魔除け」なのでしょうか。
それから、
道路にはぽつんと放置された
荷車が停まっています。
家畜用の干し草ですね、きっと。
眺めておりますと、
荷車は生き物のようにも見え、
主人を大人しく待っていると言うよりも
この場に放置され、不安そうにも
見えてくるから不思議です。
「ねぇ、いつ迄こうして待っているの?」と。
様子を伺っている中に
何故だか急に可笑しくなり
笑いをこらえながら一枚、パチリ♪
そして
笑いが止んだ後のもう一枚。
干し草ブロックの上に注目しました。
題名はシンプルに「縄と干し草」。
荷台の持ち主の存在や生活が、
どことなく感じられるお気に入りの1枚となりました。
これらの写真は、
花や鳥に見られる美しい彩りや
雄大な風景ではありません。
一見、何の変哲もないので、そのまま
すたすたと通り過ぎてしまいそうです。
でもこういった素材は、
美しいと感じている色や
形に捕らわれる事なく、
「自分が何に興味を持ち、どのように考えているのか」が
ストレートに現れる写真になります。
写真に対して「素直な気持ちで向き合ってみる」、
それから
撮影をする前にまず
「物事を様々な角度から考えてみる」
良い機会であると思っています。
さて、
中央山系にあるグレードス山脈の景色、
そして村の生活の様子に、
どのようなご感想を持たれましたか。
これはスペイン全体に言える事なのですが、
ご紹介した山中の村々のように
地方都市とさほど離れてなくても、
かつては険しい山々が
人々の往来を遮断して来たのか、
伝統的な生活が未だによく保存され、
その度に驚かされることがあります。
この地方ではありませんが、
聞くところによりますと、
1930年代後半に起きた
あのスペイン市民戦争を知らなかった
村もあったのだそうです。
「スペインは地方色が豊か」と言われるのは、
こういった地形が地域の人々との交流を阻み、
「閉ざされた世界を形成する」
背景があるからです。
また、妹マドリードが誕生した
中世スペインの世界では尚のこと、
この中央山系が当時、
自然の国境であったのは
想像に難くないと思います。
お話をしている中に
もうすっかりグレードス山脈から
下りてきましたね。
山々には
また雲がかかり始めたようですよ。
休憩場所「花と木」のテラスへようこそ
さて、
第一部が終了致しました。
ご覧頂きましてありがとうございました。
このまま続けてご覧になる方、
この先のお話を時間を置いて
改めてご覧になる方、
両方いらっしゃるかと思いますが、
ここで一旦「休憩時間」のご案内を
させて頂きます。
どうぞこちら「花と木のテラス」で、
気分転換をなさって下さいね。
この後もボリュームがありますので、
テラスは後ほど、もう一度設けてあります。
尚、恐れ入りますがいつものように
「休憩時間」の長さに関しましては、
ご自分で設定して頂きますよう
お願い致します♪
ではこれより、
かつてのローマ街道
南西の都市のお話を始めます。
またどうぞごゆっくりお楽しみ下さいね。
*** *** *** *** *** *** ***
都市アウグスタ・エメリタ
ローマ時代、幹線道路の1つであった
「エメリタ-カエサラウグスタの道」。
そしてこの街道の南西に
位置するのが都市「アウグスタ・エメリタ」。
紀元前25年。都市エメリタは、
ローマ帝国初代皇帝
アウグストゥスの命により、
ローマ軍団「レギオン」の退役軍人を迎入れる
「植民都市」として建設されました。
現在の都市名は
“Mérida”(メリダ )と呼ばれ、
ポルトガルとの国境にもほど近い
スペイン西部エストレマドゥーラ州の
州都になっています。
それから、これより先は
地名の混乱を避けるため
あえて古代名「エメリタ」を並記せず
現在の地名「メリダ」を使ってお話を致しますね。
さて、
商店街を覗いてみました。
気さくな感じの町で、ここでは地方都市の
ゆったりとした日常風景が見られます。
メリダは同じ州都でも、
例えば、南部アンダルシア地方の大都市
セビージャ(セビリア)のように
空に向かって聳える立派な大聖堂や、
ビター・オレンジの街路樹が続く街並み、
夜の小道に薫る白いジャスミンの花々...と言ったような
壮麗で、華やかな町の雰囲気はありません。
ではこの街の特徴はと申しますと、
主にローマ時代の遺跡が
点在している事なのです。
現代の市街地の建造物と
微妙なバランスで一体化しているために、
「えっ、何かしら...?」と、
こう疑問を投げかけながら、
旅人はおもむろに古い遺跡に近寄ると...。
目にした建造物が
ローマ時代の遺産と知った瞬間、
驚きと共に旅人の心を一気に
遙かなる時代の旅へと誘ってくれる...。
そんな魅力を持っている町なのです。
要衝であった都市メリダ
旅人の心を一気に
ローマ時代へ誘う町...。
メリダに残る遺跡を訪ねますと、
ローマ帝国に存在していた
他の大都市に引けをとらぬような
建造物のスケールの大きい、
そして風格がある事でした。
当時のメリダが、
実際どのような地形にあり、
役割を持たされた都市であったのか。
その辺りを簡単にご説明していきますね。
メリダは、ローマ帝国の属州ヒスパニア
(現在のスペイン・ポルトガル)西部にあった
ルシタニア州都としての機能と、
それに、交通・軍事・産業の要を
兼ね備えていた都市でした。
もう少しかつての都市メリダについて、
具体的な例を挙げてみましょうか。
まず川に架橋して、
岸辺に都市を建設したのは、
この辺りの地形をおよそ南北に分断する
川の防衛にありました。
また恵まれた地形にあることから、
10本の幹線・支線道路が
交差していた事もあります。
特に注目すべきは
北部とを繋ぐ”Vía de la Plata”
「銀の道」の建設でした。
サンティアゴへの巡礼道の1つとして
現在知られていますよね。
この銀の道を建設する重要性とは
2つありました。
1つは、スペイン北西部の鉱山で
採掘された金・銀等のコントロールを、
中継地であるメリダが担っていた事です。
北西部で採掘された大量の鉱物資源は、
「銀の道」を通って、スペイン南部から
海路でローマへ輸送されていったのです。
それからもう1つあります。
イベリア半島でのローマ軍団を
最後まで執拗に苦しめたのが
北西部の先住民族との10年に及ぶ
「カンタブロスの戦い」でした。
確か先住民族達との戦は、
200年間続いた事をお話致しましたが、
覚えていらっしゃいますか。
ローマが半島征服をするのには、
それは長くて困難な道を辿った事になりますね。
そんな訳ですから、
都市メリダは北西部での
軍事作戦を行う基点(ベース)としても
発達していったのです。
さて、
ローマの権力と富が
形となって現れたメリダは、
都市としてどのような
構造をしていたのでしょうか。
具体例を挙げれば、
川の増水にも耐えうる、
都市をぐるりと囲んでいた「強固な市壁」。
それから「碁盤目上に区割りした市街地」。
中心地には立派な「神殿」や
「フォーラム(集会用広場)」...。
当時のメリダの様子が、
だんだん浮かび上がって来ましたか。
「ロス・ミラグロスの水道橋」
では次に、
未だに現存している事が
奇跡(ミラグロ)と言われ、
その名がついた
“Acueducto de los Milagros”
「ロス・ミラグロスの水道橋」をご覧下さい。
現在メリダには
水道橋が2つ残っています。
メリダへ鉄道で旅をした事があるのですが、
写真のように駅のホームに着きますと、
水道橋がまず目にはいります。
天辺にはコウノトリが巣を作り
私達人間にとっては
何とも長閑な一風景です。
さてこの水道橋ですが、
ローマ時代はメリダから数㎞離れた
貯水池から水を引いていました。
貯水池からは水を地下に通らせ、
町の入り口付近になると
今度は写真のように
地上の水道橋を伝わせて、
安定した水の供給を行っていました。
この方法ですと、わざわざ川から
水運びする必要はないわけです。
そう言えば、1枚目の水道橋をご覧になって
南部アンダルシア地方の有名な
「あの建築物の内部と似ている!」と、
ピンと来る方はおられませんか?
その場所はこちらです。
アンダルシア地方、
都市コルドバのモスク内、
祈りの間に見られる柱ですね。
もちろんこのモスク内の柱は、
ローマ建築やその後の西ゴート、
東洋のイスラーム教徒の芸術が
融合して出来た形なのですが、
こうして既存の物に
新たなる考えや技術が時代と共に加えられ、
古代のローマ時代の水道橋が
中世に於いて、装飾性のある、
また高さを要求されるモスクの柱として
進化した良い例であると思います。
以上、メリダが繁栄した理由について
的を絞ってご説明しましたが、
ご納得頂けましたでしょうか。
ローマ劇場
さて、アーチの向こうに
立派な「ローマ劇場」が見えてきました。
このまま潜って歩いていきますと
舞台にそのまま上がってしまいますから、
観客席へ廻ることにしますね。
それでは、階段を上りながらお話を続けます...。
ご覧になれますか。
とても立派な劇場ですね。
この劇場は、
毎年夏になりますと
ローマ時代などの古代劇を主にして、
フェスティバルが催されるのですが、
残念ながら、
訪れた季節が冬でしたから、
観ることは叶いませんでした。
訪れた感想ですか?
そうですね...。
現代の劇場に比べ
舞台空間が随分と広く感じました。
ギリシャ演劇の影響でしょうか。
『どのような演劇をするのかしら?』と、
貴方もご興味ありませんか。
私もそう思いました。
そこで実際、
客席の階段を降りては、
無邪気にあっちこっちと
好きな席に次々と腰を下ろし、
また別の席に移動を繰り返す...。
その間、
「観劇の夕べ」を思い描いてみました。
そう、こんな風にです♪
あっ、でも、
これからご覧頂くお祭りや
人々の笑い顔などのシーンは、
あくまでも「こんな感じかしら?」という、
私の勝手な想像の世界です。
実際の古典劇のシーンでは
ございませんので悪しからず...。
また、こんな事も想像してみました。
例えば、舞台セットはどんな風かしら...。
大道具・小道具などのセットは、
豪華でも、シンプルでも
内容によってどちらも素敵ですよね。
また、光りの演出も大切ですね。
背景となる立体的な石柱を
充分生すように当てられるライトも。
大道具、小道具、そしてライト。
これで舞台の様子も随分と変化がつくでしょう?
まだまだ、想像の世界は続きます。
次のように...。
座っている私達観客を
突然驚かすのは、
背後から声高に登場する喜劇役者。
観客を笑いの渦に巻き込み、
「いかにも」と言った風な衣装にメイク、
滑稽な身振り、手振りをつけて
客席通路を下りて行く...。
仮に、早口のスペイン語での演劇だとしても、
周りの観客が
「あははは!」なんて笑い始めますと、
一人一人の舞台俳優の個性豊かな演技に
こちらもついつい一緒に釣られて
可笑しくなってしまいますよね!
真夏の夜の、野外での観劇。
うーん。
一度観覧してみたいですよね、
特に喜劇が楽しそうですが、
是非、今度!
席から立ち上がり、
ようやく階段を降りて来ましたので、
想像の世界も
この辺でおしまいに...。
娯楽施設「円形闘技場」に立って
ローマ時代の建造物は、
街道、水道橋、劇場、橋...と、考えてみましたら、
当時のローマの人々は、
劇場を始めとする巨大な建造物や、
土木建築がとても上手だったのだなと、
つくづく感心しました。
では、
都市メリダの最後は、
劇場のお隣にある、
「円形闘技場」を訪ねてみましょう。
また、
階段を上りながらお話をしていきますね。
ところで
この時代の娯楽施設ですが、
劇場や闘技場の他、サーカス
(複数建ての戦車馬車による競技)も
メリダの郊外に作られたようです。
足下の不確かな階段を上って、
闘技場の上部に出ました。
ここに立って一望してみると、
当時の情景が見えてくるようです。
席には、
かつて壮絶な戦いを生き抜いた
軍団の元兵士達にも平和が訪れて、
名言「パンとサーカス(娯楽)…」のように
政治も戦いも忘れ、
娯楽に熱中しているのかもしれません。
彼等の歓声や、野次を飛ばす声。
それに混じって猛獣の吠える声が
遙かなる時代を越えて、
今、私達の耳にも聞こえてくる
気がしませんか。
メリダにあるローマの遺跡は
世界遺産に登録されています。
長い時を経ても、
とても保存状態が良いのだとか..。
さぁ、このあたりで
都市メリダと
お別れすることに致しましょうか。
休憩場所は「秋のテラス」で\
第二部が終了致しました。
ご覧頂きましてありがとうございました。
ここで再び「休憩時間」の
ご案内をさせて頂きます。
さて、暑い夏も過ぎて
爽やかな秋の季節になりましたね。
お近くの公園や郊外に出かけると
道ではこんな「秋」に出会えるのも
巡る季節の楽しさでもあります。
一方、スペインの地方へ出かけますと
夏から秋にかけて「赤ピーマン干し」を
窓やベランダで見ることが出来ます。
乾燥させて、肉と共に煮込み料理等にします。
日本の「干し柿」の風景に近いのでしょうが、
干し柿も、赤ピーマンも
それぞれの土地に住む人々にとって、
「秋の風物詩」なのですね。
それでは、
秋のテラスで気分転換して頂いた後は、
今度は北東の都市サラゴサ
(ローマ時代 : 都市カエサラウグスタ)へと
ご案内致します。
*** *** *** *** *** *** ***
マドリードからバルセロナへ向かって
マドリードに住んでおりました頃、
所用でスペインの北東に位置する
カタルニア州の州都バルセロナまで
何度も旅をしました。
町の中心部、
南北に走るグラシア通りはオフィスの他、
一階には瀟洒なお店が建ち並んでいます。
この通りには、
建築家ガウディによるアパート「ラ・ペドレラ」や、
下の写真”Casa Batlló”「バトジョ邸」があります。
バトジョ邸の屋根やバルコニー、
外壁のモザイクなどは
見立ての世界になぞらえ、
建築家ガウディ独自の美の世界が
この通りのアクセントとなって、
道行く人々の目を楽しませてくれます。
室内もまた、
曲線を採り入れたデザインや
ステンドグラスの窓から差し込む光から、
海の中をイメージさせてくれます。
音楽で例えるとしたら、そうですね...。
ドビュッシーの「アラベスク1番」で感じるような
揺らめき...です。
あら...。ついついすみません。
今、お話ししようとしたのは、
バルセロナへ行く途中の町の事でした。
三度続きの旅 都市サラゴサ
さて、マドリードッ子は
バルセロナへ向かうA-2号線を
通称「バルセロナ街道」と呼んでいますが、
その街道を車で300㎞程走ると、
スペイン第五の都市
“Zaragoza”(サラゴサ)の町が見えてきます。
道はサラゴサ市に入る手前で外環道と合流し、
時計回りに大きく曲がり始め...。
ちょうどその頃でしょうか。遠くから
それもほんの僅かの時間ですが、
右手に、川岸に建つ立派な寺院の塔が
視界に入ってきます。
毎回ここを通過する度、
『あ...。サラゴサの町!一度見てみたいな』と、
同じ地点で同じ台詞を呟いていたのですが、
ある日そのチャンスが巡ってきたのです。
訪れたのは夏の暑い盛りで、
暑さもマドリードに負けず劣らずでした。
それまで全く行く機会がなかったのですが、
どういう風の吹き回しでしょう。
いきなり立て続けに三度も行く機会に恵まれました。
『よーく観ておくのですよ』と、
もうこれは目に見えぬ強い力で、
引きつけられとしか言いようがありませんね。
後ほどご紹介致しますが、サラゴサには
スペインの二大宗教建造物の1つ、
“Basílica de Nuestra Señora del Pilar”
「ヌエストラ・セニョーラ・デル・ピラール聖堂」があり、
世界中から毎年数多くの
巡礼者が訪れる重要な都市です。
スペインではこの聖堂を
「エル・ピラール」と呼ばれています。
さて
エル・ピラールだけに留まらず、
サラゴサにはローマ時代の遺跡を始め、
各時代の様式にアラゴン地方の
「ムデハル様式」が一体となった
見事な建造物に出会える事も
大きな特徴の1つと言えます...。
どうやらサラゴサの旅を
思い出しておりましたら、
前置きが長くなってしまったようです。
「三度続きの旅」。
そろそろお話を始めましょうか。
「エル・ピラール」
サラゴサでは、
やはり歴史的街並みのある
エブロ川右岸地区に惹かれ、
何度も歩きました。
ピラール広場では女の子達が遊び、
そして、
夏の午後、
ここに集合している人達がいます。
このグループは観光目的ではなく、
先頭の人が持つ国旗と小さな文字から、
イタリアからの
“…PELLEGRINAGGI”(巡礼)と判明しました。
わざわざサラゴサへ訪れたのは、
この聖堂が由緒ある
全キリスト教世界初の
「聖母マリアの聖堂」だからなのです。
現在の聖堂は、
1434年の火災で被害後、
1515年にバロック様式の教会として
建立されています。
見上げますと、
外壁近くや、彫刻が施された入り口付近の人達と、
建物の大きさを見比べると、
どれだけ大きいのかと
その規模に驚かされてしまいます。
堂内に入ってみると、
大理石柱の上に立つ
聖母ピラールの像が安置されています。
“El Pilar”とは「柱または支柱」の意味なのです。
また上の写真は、
広場からエル・ピラールを
写真館で使用するような
蛇腹の大型カメラを使用し撮影しました。
一般的なカメラに広角レンズを付けて
広範囲を撮ろうとすると、建物が高いために
どうしても歪みが出てしまうからです。
また撮影する際は、
頭からはすっぽり「かぶり布」(黒い布)を被り、
暗い中でカメラのガラス板を覗きます。
真夏の暑さと、頭に被る黒い布の組み合わせは
最悪な条件なのですが、そこに映る逆さの像を
ルーペで確かめているうちに、
暑さも次第に忘れ去り、目に入る
荘厳で美しい建造物に引き込まれていきます。
特に、抜けるような空と、
ドーム屋根の配色の美しさ。
こんな時スペイン人は、
眺めながら必ず
“¡Es una joya!” 「宝石である!」と、
表現します。
そう確かに、その言葉に頷けますね。
ではここで、建立に纏わる伝説をどうぞ。
キリストの12使徒の一人、
大ヤコブは伝道の為、スペインに赴きますが
思うような結果が出ずに落ち込んでしまいます。
紀元40年1月2日のことでした。
被昇天以前の聖母マリアは、
当時エルサレムに住んでおりましたが、
エブロ川の岸辺にて大ヤコブの目の前に現れ、
そして持ってこられた柱で、
最初の礼拝堂を建てるようにと
彼を元気づけたのです。
その後の大ヤコブですが、
サラゴサで8人の改宗者の中の一人を
司祭に任せてエルサレムに戻るのですが、
殉教してしまいます。その亡骸は
船に乗せられ、やがてスペイン北西部の
ガリシア地方へと流れ着く...。
と、この辺りの前後のお話は、
巡礼道で有名なスペイン北西部の都市
「サンティアゴ・デ・コンポステーラ」の
大聖堂に祀られている
サンティアゴ(聖ヤコブ)に纏わる伝説ですね。
サンティアゴ(聖ヤコブ)は
鍔付きの丸い帽子。マントにはホタテ貝。
杖に瓢箪を持った巡礼姿の像は、
すでにご存じかもしれませんね。
さてお話は
ローマ時代のサラゴサに移ります。
ローマ時代の遺跡
これより先は都市メリダと同様、
地名の混乱を避けるため、
あえて古代名「カエサラウグスタ」を並記せず
現在の地名「サラゴサ」のみを使ってお話を致しますね。
それでは
エブロ川に架かる橋からの眺めを
ご覧になりながらどうぞ。
都市サラゴサは、
初代皇帝アウグストゥスにより
退役軍人の為の植民都市として
紀元前1世紀に始まりました。
この都市は、
陸上、水上交通共に要衝であり、
特にエブロ川を利用して、
源流のスペイン北西部から
地中海まで船を利用した
水上交通が発達しました。
サラゴサは、
河谷の中心部に位置しているため、
ここで荷物は再配分されて、
各地に船出をしていったのです。
船荷の中はどんな物が入っていたのでしょうね。
少し例を挙げてみましょうか。
まずは、内陸地から地中海方面では、
麦、木材、鉄、皮革、麻などを、
そして地中海からは
ワイン、塩漬けの魚、
陶器、大理石や宝石....。
ローマ時代の
ヒスパニア(スペイン・ポルトガル)は、
産業が豊かだったようです。
次に、
聖堂前広場近くに残る
紀元2-3世紀に建設された
ローマ時代の市壁をご紹介いたします。
市壁は今でも部分的に残っていて、
未だに道の下になっている場所もあります。
外敵侵入から市民を守る市壁は、
周囲をぐるっと測ると、
およそ3000mになります。
当時の市壁の横を歩いてみましたら、
非常に頑丈な作りで、
多くの場所で壁の厚さが7mにも達します。
でも、この壁の厚さは何に対しての
防御を想定していたのでしょう。
ちょっと知りたい気もしませんか...。
また、
この壁には、高さ13mもある大きな塔が
120箇所あります。
腕を広げて測ってみると、
おおよそ2mちょっとに塔が1つ、
壁と一緒に設置されていた事になりますね。
「自分たちの都市を守る」を
直に古代の人々から
形で示された思いでした。
中央市場の眺め
只今ご案内致しました市壁の先には、
イタリアから贈られた
皇帝「アウグストゥス」の彫像が、
中央市場前に建っていますが、
でもその前に、
中央市場も見て下さいね。
町の中央市場です。
市場の歴史は古く、何度も建て替えられても、
13世紀以降ずっと変わらぬ場所にあります。
この建物は鋼材を使用して
建てられた市場です。
鋼材と言えば、
19世紀末に建造された
パリのエッフェル塔が有名ですね。
実際、その数十年後
ここサラゴサでもこうして
同様の材料で建造されたのです。
その上、良く見ると一番大切な
「スペインらしい装飾」がされていませんか。
両側の幾つもの小さな半円形アーチ。
中央上部に嵌め込まれたガラスと鋼材。
そして柱頭飾り...。
そして側面のこの外観も。
サラゴサの「街中の美術館」を見つけた
気分になりますね。
天井が高い場内に入ると、町を流れる
エブロ川流域の鮮やかな野菜や果物が、
綺麗な山形になって積まれている。
そんな光景が目に浮かぶようです。
皇帝アウグストゥス
そして次なるは...。
皇帝アウグストゥスの彫像です。
皇帝アウグストゥスの名前は、
“Caesar Augustus”(カエサル・アウグストゥス)。
サラゴサのローマ時代の地名は、
カエサラウグスタ。実は、
皇帝の名が付けられています。
でも慣れませんと、
ちょっと覚えにくい名前ですよね。
また、アウグストゥスは
ローマ帝国領域内に
“Paxs Romana”(パクス・ロマーナ)
「ローマの平和」をもたらした人と言われていますが、
その志半ばで亡くなった彼の養父が
「ブルータス、お前もか!」の台詞で有名な
ジュリアス・シーザーなのは、ご存じでしたか。
2つの街中の美術館
今度は写真奥に見える
カテドラル(大聖堂)をご紹介しようと思いますので、
広場の聖堂の反対側を
眺めながら歩いていきますね。
最初に足が停まったのは
このカフェ・テラスでした。
黒いノースリーブのブラウスを着た
一人の女性が座っていました。
エル・ピラールを眺めながらの
午後のカフェは如何ですか。
良く見ますと、
彼女の後ろに見えるカフェテリアも、
街中の美術館の1つとして数えられそうですね。
大窓の上に施してある花の装飾や、
2階の鉄製のバルコニーや、アーチも素敵です。
もう一箇所、街中の美術館をご紹介します。
ショッピング・センターの外壁は、
良く見ましたら
カフェテリアと同じ装飾でした。
そして中に入ってみましたら、
夏休みの為か
ほとんどの店舗は閉められていて、
がらーんとしていました。
『何があるのかしら?』と、思っておりましたが
ちょっと残念でした。
とは言え、内部装飾は、
ショピング・センターと言うよりも
むしろもう宮殿レベルですね。
広場で探した街中の美術館は、
お気に召しましたか。
サルバドール大聖堂の鐘楼
さて、こちらが
“Catedral del Salvador”
または”La Seo del Salvador”
「サルバドール大聖堂」です。
上に書かれた2つの名前、
「カテドラル」も「ラ・セオ」も
どちらも同じ大聖堂を指します。
さて、このラ・セオ。
ご紹介したい建物に選んだ理由とは、
スペインの歴史をそのまま
物語っているからです。
現在、私達が目にしている
以前の建造物は、
各時代の支配者が交代する度に、
何度も建て替えられて来ています。
例えば、
ローマ時代は、フォーラムや寺院。
次に西ゴートの教会...と、
こんな風にです。
やがて8世紀に入ると、
アル・アンダルースの領域となり
イスラーム教徒によって
新たにメイン・モスクがここに建てられます。
しかし、
スペイン北西部に追いやられた
キリスト教徒も徐々に勢力を盛り返し、
12世紀にサラゴサは、
キリスト教徒の手に落ちると...。
モスクの塔はそのまま
キリスト教徒の鐘楼として
転用されることになりました。
それ以降、
ラ・セオは18世紀まで
改修と拡張が行われていきました。
ラ・セオの塔は
トレドのお話でも例えたように、
日本で言うならば、
「和洋折衷の建築物に、その後
時代の流行が付け加えられていった」と、
表現した方がよりご理解しやすいのかも
しれません。
この塔は、各時代の流行である
ロマネスク、ゴシック、ムデハル、
ルネサンス、バロック、
そしてネオ・クラシック様式が
一体となった建造物と言えるのです。
「スペインらしさ」には、
こうした文化の融合によって見られる
建築物や工芸品が、
他の国々では見られない
独自性が特徴と言えるのです。
フォーラム博物館の一角
一方、
ラ・セオの塔の右隣には、
「カエサラウグスタのフォーラム博物館」があります。
下の写真、右手の建物がそうです。
地下にある博物館の一角、
現在の様子はどんなでしょう...か。
ちょっと下りていって見ますね。
博物館には彫像や遺跡の他、
コンサートが開けるようになっていました。
ぼこぼこしている壁は、
残響の少ない無響室の壁みたいですね。
どんなピアノの音色がするのでしょうか。
ローマ時代に作られたこの場所を
コンサート会場にしようと考えた人は、
夢のある発想の持ち主ですね。
地上に上がり、博物館の外へ出たところです。
正面奥にはエル・ピラールの塔が見えますが、
ここはエル・ピラールとラ・セオが
対になっているのです。
サン・ミゲル礼拝堂の外壁の世界
さて、この大聖堂ではもう1箇所、
ご覧になって頂きたい場所がありました。
広場から向かって
塔左手に見える白い建物が、
“Capilla de San Miguel”「サン・ミゲル礼拝堂」
通称”Parroquieta”「パロキエタ」。
この礼拝堂の左手の角を曲がりますと、
1370年代に作られた
アラゴン地方のムデハル様式の
とても美しい外壁が見えてきます。
その壁を眺めた時、
『本当に礼拝堂の外壁なの?』と、
一瞬戸惑いながらも
息を呑む美しさがそこにありました。
誰もがしばし足を止め、
目の前を埋め尽くす幾何学紋様に
見とれる為、この空間だけが
外界と遮断されたような
静けさが存在するのです。
ここを、
大きな壁に掛けられた「アラブ風タピスリー」と
表現する人もいます。
この通りに
大型カメラを出して撮影をしていますと、
旅姿のスペイン人の青年2人が、撮影の
タイミングを見計らって静かに声をかけてきました。
「すみません、今、構いませんか。
どんな風に見えるのか、覗かせてもらっても良いですか」と。
彼等が覗いた感想、ですか?
「この壁から発散している美しさ、それから
堂々としたエル・ピラールの塔と言い、
どちらも迫力がありますね」と、昔、
これらの建設に携わった人達の心が、
大型カメラを通し形となって現れた事に
素直に感動した様子でした。
さて、先程から何回か登場した
「ムデハル様式」のお話を
ここで少し詳しく解説していきます。
“Mudéjar”「ムデハル」とは、中世スペインで
支配していたイスラーム教徒達が、
キリスト教徒によって再征服された後も
改宗することなくスペインに
定住し続けた人々のことです。
キリスト教徒のレコンキスタ後は、
都市にはモスクの変わりに
新しくキリスト教会が建てられました。
ですから、
ムデハルの人達が
持っていた建築方法や
習慣、芸術性が装飾として
開花したのでしょうね。
ご覧の通り材料は、
煉瓦、光沢のある陶器やモザイクと、
経済的な素材ばかりですが、
非常に富んだ装飾が施されています。
それから、
このほっそりとしたアーチの外側には
モザイク文様が見えますね。そして
頂点の部分に半月を逆さにした紋章が
ご覧になれますか。
スペイン語で「月」は
“Luna”(ルナ)と言いますが、
この半月はイスラーム教徒の
ムデハルの人々とは関係はなく、
建設の後援者である
当時のアラゴン王国の貴族
“la Familia Luna”「ルナ家」の紋章です。
そう言えば、
14世紀末の教皇ベネディクトゥス13世も
このルナ家出身でした...。
ドイツ人旅行者が見た光景
ラ・セオの説明の最後には、
中世末期に生きた
ドイツ人による旅行記からのお話です。
もう少しだけ、
この壁をご覧になりながら聞いていて下さいね。
15世紀末。キリスト教徒によるレコンキスタが
完了して数年後の事でした。
ドイツ・ニュールンベルグから
スペイン、ポルトガルへと7000㎞を旅した
“Jeronimo Münzer”(ジェロニモ・ミュンツァー)は、
このサラゴサで注意を引いた光景に出会います。
その光景とは、町のムデハルの人々が
この外壁前を通る際、
必ず深く頭を下げていく姿でした。
レコンキスタ以前は、ここはモスク。
つまり寺院内で最も神聖な場所、
メッカへの遙拝(しょうはい)を示す壁面の窪み、
「ミヒラブ」があった場所だったのです。
それでは、
美しいパロキエタの壁から
静かに立ち去った後は、
賑やかな商店街を覗いてみましょうか。
サラゴサの街角風景
サラゴサの街角は
まだご紹介していませんでしたよね。
ここでは、
広場を中心として様々な表情を
お届け致します。
広場を繋ぐ商店やレストランのある通りです。
昼の食事時間を除いて
人通りも多く、いつも賑やか。
同じ通りの
土産店のショウウィンドウ。
サラゴサに余り関係のない
お土産もありますが、
はやりスペインらしさを支えているのは、
お土産品では、
「闘牛」と「フラメンコ」と言う気がします。
あら?
商店街から見える路地は、
お店がまだまだ続くのかと想像していましたら、
随分静かな通りもあるのですね。
一方、エル・ピラールの広場裏では、
観光の合間なのか、
皆さん仲良く、また楽しそうです。
そうそう仲良くと言えば、
商店街の通りのお二人です。
あらあら、仲良しのお二人。
ご馳走さま♪
こちらは、土産店を兼ねた甘いお店。
水色と赤を基調にした看板には、
“FRUTAS DE ARGON”
「アラゴンのフルーツ」。
でも生の果物ではなく、
砂糖漬けをチョコレートでくるんだ、
見た目はチョコレート・ボンボン風の
伝統的銘菓です。
この地方の特産品はフルーツで、
梨や杏、サクランボ、イチジク、スモモなどを、
古くから砂糖漬けにしていました。
街道沿いのレストランやガソリンスタンドでは、
手間暇かかったこのお菓子は木箱に入れられ、
ちょっと偉そうなお値段が付いていますよ。
もう1件は、
ケーキやビスケット、
アイスクリームにチョコレート菓子と、
所謂スイーツを販売する創業1856年の老舗。
お店の名前も女性が好みそうな
“LA FLOR DE ALMIBAR”
「砂糖漬けの花」は、
お菓子の世界と、お店の装飾にと
同時に二度楽しめるお店です。
ここも「街中の美術館」の1つに
加えても良いと思いませんか。
エル・トゥボ地区
さて、そろそろ
日の暮れる時刻になりました。
流石に一日中歩き回り
足が棒のようなのですが、
この先の”El Tubo”「エル・トゥボ」の地区へ
最後に行ってみました。
到着してみると、
皆さん上機嫌で歩いています。
私も先程は
『疲れたー!』と思っていましたのに、
人の気持ちなんていい加減なものですねぇ。
歩いておりましたら、楽しくなってしまいました。
さて、
ここは古くからある一角で、
一日の終わりには
小皿料理”Tapas”「タパス」をつまみに
人々が集まって来ます。
エル・トゥボは、地区再生のために
お客さんにもっと来てもらおうと、
お店側も色々アイディアを絞っているようでした。
こちらは、ワインを中心にしたBar。
中に入りましたら、注文出来ないほど
お客さんで一杯です。
それから、
この先を歩いていきましたら、
左手に屋外レストランがありました。
そこも以前は、しばらくの間
空き地だったのかもしれません。
そのお店の前には
一人の女性客が立っていました。
友人より先に来て
メニューを眺めて考えていた様子です。
時間は午後9時半をまわったところでしょうか。
レストランではタパスをつまみながら
ちょうど盛り上がる頃。
9時半なんて遅いと思うかも知れませんが、
上の写真で空を見上げますと、
実はまだ日没前。
スペインの夏の夜は、長いのですよ。
うーん、こちらも
そろそろお腹もすきましたので、
食事にしたいところですが...。
実は、
この地区に来たお目当ては
サラゴサの再開発地区が
どうなっているのかを、
写真に収めることでした。
それから、
「ストリート・アート」と、
14世紀のムデハル様式の
教会の鐘楼との
組み合わせもあります。
イスラーム芸術に
キリスト教の建築が融合した教会に、
繁華街のストリート・アート。
サラゴサの新たなる様式?をご覧になって、
貴方はどう思われるでしょうか。
上記2つは、
ちぐはぐな取り合わせのようですが
こうして実際眺めてみると不思議と憎めない、
それぞれが反発するように
見えない面白さを感じました。
だいぶ遅い時刻になってしまいました。
先程まで賑わっていた
テーブル席も人の姿は
ほとんど見かけません。
こちらもそろそろ
機材を仕舞う準備をしようかしら...。
給仕をしてくれる男性達から
「撮影終わったら、
遅くまで開いているから是非来てね!」と
お誘いの言葉がありましたので、
ここでちょっとつまんでいきますね♪
サラゴサの
エル・トゥボの夜は、
街角の人々の笑い声と共に
ゆっくりと更けていきました。
では、この辺で...。
本日ラストの写真
さて今回は、
お姉さんのトレドから
妹のマドリードへお話が移りました。
お楽しみ頂けましたでしょうか。
今回、自分がお世話になった
懐かしいスペインの首都マドリードを
ご紹介するにあたり、
どんな切り口にしようかと色々と考えました。
やはり何と申しましても
王宮に隣接する広場からの眺めや、
そしてカサ・デ・カンポ公園からの
ひな壇のマドリードが印象的であって、
この視点からお話を始めるのが
私にとっては一番自然だと思っています。
尚、マドリードは次回もテーマに
引き続きお送りする予定です。
今夏は暑い夏が続きましたね。
お変わりございませんでしたか。
個人的な事で恐縮ですが、
夏に引っ越しをし、
ブログ更新がとても遅くなってしまいました。
当ブログへ何度か様子を見に来て下さった方、
嬉しくもあり、と同時に
大変申し訳なく思っております。
これに懲りず、またご覧になって下さいね。
この度も長い時間、お付き合いを頂きまして
どうもありがとうございました。
*** *** *** *** *** ***
初稿公開日:2014年10月2日
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