第11話 道 (I)  秋景色からトレドへ

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台風が過ぎ去った後に\r\n\r\n早朝に台風が過ぎ去った日の午後、\r\n外へ少し出てみました。\r\n前日まで出口のない暗く覆い被さった空は、\r\nすっかり様変わり...。\r\n\r\n目の前を渦巻く白や灰色の雲が\r\n刻々と姿を変えながら通り過ぎ、\r\nその様は空中に浮かんだ機関車から\r\nはき出す濛々たる煙にも見えます。\r\n\r\nBlog-11-1\r\n\r\nやがて次々とやって来る雲は\r\n茜色に染まり始め、\r\n雲間から漏れ出す筋状の光もまた\r\n大地を照らし、\r\n鮮やかな夕空へと\r\n変わっていきました。\r\n\r\nBlog-11-2\r\n\r\n今秋は、\r\n何と台風が多い年だったのでしょう。\r\n\r\nそう言えば台風が来る度に\r\n「秋」が深まっていくのだと\r\n聞いたことがありますが\r\nその理由をご存じですか。\r\n\r\nBlog-11-3\r\n\r\nさて、スペインにおりました時、\r\n外国暮らしが慣れたとはいえ\r\nやはり故国日本の秋は風情があって\r\nこの季節が巡る度、\r\n日本の景色を懐かしく\r\n思い出されることがありました。\r\n

Blog-11-4

\r\n当時心に描いていた風景とは、\r\n朱色に熟した艶やかな柿の実。\r\n\r\nそして風が舞い上がる度に、\r\n一人歩きしていく柿の葉。\r\n\r\nBlog-11-5\r\n\r\nまた神社や寺院、\r\n公園の銀杏並木。\r\n\r\n晩秋の空に広がる\r\n葉の色や形の美しさ。\r\n\r\nBlog-11-74\r\n\r\nふと足を止め\r\n見上げるのは、斑模様の雑木林。\r\n\r\nBlog-11-6\r\n\r\nそして「自然」の絵筆で、\r\n色づけされた\r\n赤・緑・黄色の葉は\r\n里山の秋色でした。\r\n\r\nBlog-11-7\r\nスペインの秋色\r\n\r\n一方、スペインでも\r\n秋景色が美しい場所が\r\nたくさん存在します。\r\n\r\nBlog-11-8\r\n\r\n住んでおりましたマドリードは\r\nスペインの首都。\r\nここからは大きな自動車道が6つ\r\n放射状に伸びています。\r\n\r\n一旦、都市周辺部の\r\n産業団地を外れますと、\r\n道の両側には自然の風景が広がります。\r\n\r\n丘の上には古城、\r\nその麓には教会や村があって、\r\nとても絵画的な場所がたくさんあります。\r\n\r\nBlog-11-92\r\n\r\nそれでは\r\nこれらの自動車道を利用して\r\n秋景色を何カ所か\r\nご案内したいと思います。\r\n\r\n北部スペイン\r\n\r\n地方出身者が多いマドリードの知人達に\r\n「紅葉が美しい場所は何処かしら?」と、\r\n訪ねますと、\r\n\r\nBlog-11-126\r\n誇らしげに出身地の\r\n「ご当地自慢」と思いきや、\r\n意外にも紅葉の美しさならば\r\n北部のAsturias、\r\n「アストゥリアス州(または公国)」と言います。\r\n\r\n緑多きアストゥリアス地方の風景\r\n\r\nアストゥリアスは\r\n海岸線からすぐに険しい山々が\r\n聳え立つような地形が\r\n特徴と言えます。\r\n\r\nBlog-11-9\r\n\r\nたまたま訪れた季節は初夏でした。\r\nですから、峠から一望できる山の景色は清々しく\r\n緑の牧場には牛が放牧されていました。\r\n\r\nBlog-11-10\r\n\r\nこの時は紅葉の景色は\r\n望めませんでしたが、\r\n次は山が色づく季節に\r\n訪ねることが出来たなら...と、\r\n思っています。\r\n\r\nBlog-11-127\r\nまた土地柄酪農が有名なので、\r\nスペインのマーケットでは\r\n牧場の写真や図柄のついた\r\nアストゥリアス産の乳製品を、\r\n日頃よく見かけたものです。\r\n\r\nBlog-11-11\r\n\r\n葡萄畑の秋\r\n\r\nもう1箇所\r\n北部でも少し内陸に入った\r\nスペイン・ワインの有名な産地、\r\n”La Rioja” 「ラ・リオハ州」の\r\n葡萄畑の秋をご覧下さい。\r\n\r\nBlog-11-12\r\n\r\nここを訪れたのは10月の初旬で\r\n紅葉が幾分早いようでしたが、\r\nそれでも赤・紫の葡萄の葉の\r\n美しさが見事でした。\r\n\r\n南部アンダルシア地方の秋\r\n\r\nさて、\r\nこちらはある村はずれの地方道。\r\n道路脇で見つけたのは、\r\n取り残されたマルメロの実。\r\n\r\nこの果肉はジャムにして\r\nナチュラル・チーズに載せて頂くと\r\nチーズの塩味に甘さが加わって\r\nひと味違ったデザートになります。\r\n

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\r\nマルメロがあった村から20㎞程で\r\n“Granada” 「グラナダ」の町に到着です。\r\n\r\nこちらはAlhambra(アルハンブラ)宮殿のある丘で\r\n見つけた蔦(ツタ)の葉。\r\n

Blog-11-13

\r\nスペイン南部と言えども\r\n日が陰ったグラナダの秋の午後は、\r\n思いの外寒かった記憶があります。\r\n\r\nそれは、町の背後に聳える\r\nネバダ山脈からの寒気でしょうか。\r\nほら、見ているとひんやりしてきて\r\n思わず手をこすり合わせたくなりませんか。\r\n\r\nBlog-11-128\r\n”nevada” 「ネバダ」とはスペイン語で\r\n「雪の積もった」、\r\n「雪に覆われた」の意味から、\r\nこの山脈の寒さも\r\n想像がつきそうですね。\r\n\r\nそしてスペイン中央部の秋\r\n\r\nスペインの北部・南部の景色は\r\n如何でしたでしょうか。\r\nここで首都マドリードをご覧下さい。\r\n\r\n街には黄葉した街路樹が\r\n煉瓦建築に良く似合います。\r\nこのようにプラド美術館裏にある\r\n「レティーロ公園」も\r\n夏の観光シーズンから開放されて、\r\n都会らしく洗練された\r\n公園の秋を満喫出来ます。\r\n\r\nBlog-11-14\r\n\r\nマドリード郊外、\r\n北に広がる中央山系の麓にも\r\nお連れしましょう。\r\n\r\n霧でしっとりと覆われた山間の風景。\r\n手前と奥に石垣があることから、\r\nここでは家畜を放牧するのでしょうね。\r\n\r\nまた枯れ草が積み上げられた眺めは、\r\n何故か日本でなくとも\r\n郷愁を覚えませんか...。\r\n\r\nBlog-11-129\r\nもう1箇所、\r\n静かな「秋の一日」を\r\nお散歩をしながら過ごすのであれば、\r\nマドリードから南へ50㎞程離れた\r\n”Aranjuez” 「アランフエス」の町がぴったり。\r\n\r\nそんなアランフエスの秋の表情を\r\n少しご紹介します。\r\n\r\nここには16世紀半ば\r\nFelipe (フェリーペ)2世の命によって\r\n建築されたスペイン王家の離宮があります。\r\n途中何度かの火災に遭いましたが、\r\n200年の歳月をかけて見事に完成します。\r\n\r\nBlog-11-15\r\n\r\n上の写真は、”Iglesia de San Antonio”\r\n「サン・アントニオ教会」。\r\n離宮へ向かう途中の広場の奥に\r\n位置しているので、\r\n広場と一体感がある教会です。\r\n\r\n荘厳な離宮や、美しい庭園のある\r\nこの小ぶりな町アランフエス。\r\n\r\n王宮付近の道や広場だけでなく、\r\n少し外れた道路脇の並木でも\r\n静かに散策することが出来ます。\r\n

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\r\n並木の窪みには、\r\n落葉がこんもりと溜まっています。\r\n子供時代のように\r\nここを少し歩いてみませんか。\r\n\r\n夏の間、\r\n高い枝に青々と茂っていた葉。\r\n\r\n今は自分の靴の周りに色々集まって、\r\n一歩、一歩、足を踏み出す度に\r\n歯切れ良く奏でる音。\r\nそれは「スタッカート記号」が付いた\r\n音符そのもの。\r\n\r\nBlog-11-17\r\n\r\nところでアランフエスの町は、\r\n昔の地方名で呼ぶならば、\r\n”Castilla” 「カスティージャ地方」の\r\nオアシスと言われています。\r\n\r\nアランフエスのある\r\nスペイン中央部の特徴は、\r\n内陸性気候のため乾燥が厳しく\r\n褐色で、乾いた大地が広がっています。\r\n

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\r\nところが、\r\n車でマドリードからアランフエスへ\r\n到着する前になると、長い下り坂から\r\n見える景色は一変します。\r\n\r\n眼下に広がるのは緑溢れる沃野。\r\nアランフエスの農産物で有名なのは\r\n「苺」や「グリーン・アスパラ」。\r\nアランフエスはマドリード州にあるので\r\n言わば定評ある「マドリード・ブランド」の\r\n農産物と言えるのではないでしょうか。\r\n\r\n \r\n\r\nBlog-11-113\r\n\r\nそれから説明が前後しましたが、\r\nここの土地が肥えているのは\r\nスペインからポルトガルへと流れている\r\n「タホ川」流域にあるからです。\r\n\r\n川は町の外でもう1つの川と合流し、\r\n南西へと蛇行しながら\r\n”Toledo” 「トレド」へと\r\n「水の旅」を続けていきます。\r\n\r\nトレドではこのタホ川、\r\nどんな姿を見せてくれるのでしょうか...。\r\n

Blog-11-114

\r\nお話の前半が終了\r\n\r\nさて、\r\n第11話の前半部分をご覧頂きまして\r\nありがとうございました。\r\nここで一旦「休憩時間」のご案内を\r\nさせて頂きました。\r\n\r\n後半のお話を時間を置いて\r\n 改めてご覧になる方も\r\n いらっしゃると思います。\r\n\r\n尚、恐れ入りますが\r\n「休憩時間」の長さに関しましては、\r\nご自分で設定していただきますよう\r\nお願い致します(笑)。\r\n\r\n\r\n後半はボリュームも多めです♪\r\n\r\n\r\n***   ***   ***   ***   ***   ***   ***\r\n\r\nこれより後半部分です。\r\n前半同様、\r\nまたごゆっくりお楽しみ下さいね。\r\n\r\nトレドの旅\r\n\r\nもう随分前のことです。\r\nスペインに来て間もなく\r\nそれもマドリードへ\r\n到着したばかりの数日後に、\r\n記念すべき初めての列車の旅をしたのは\r\nトレドでした。\r\n\r\nBlog-11-81\r\n\r\nこの旅も\r\n「古都をゆっくり楽しんだ」と言うより、\r\nむしろ慣れない強い日差しの下、\r\n鉄道駅から丘にある町中を\r\n一日中よく歩いた事の方が\r\n記憶に残っています。\r\n

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\r\n町の城門「ビサグラ門」から、\r\nしばらく上り坂が続きます。\r\n途中で一旦休み、\r\nもう少し続く坂を眺めていると\r\n「水不足の島」と言われた\r\nトレドの昔をふと思い出しました。\r\n\r\nBlog-11-20\r\n\r\nここは岩の上に建つ町ゆえ、\r\nタホ川から機械を駆動させる\r\n汲み上げ方法は、16世紀まで\r\n待たなくてはならなかったのです。\r\n

Blog-11-115

\r\nですから飲料水の確保に苦心し、\r\nそれ以前は雨水を溜めるか、\r\nもしくは下の川から\r\nロバに運んでもらう方法しかなく、\r\n生活も大変でした。\r\n\r\n現在のトレドでは\r\nロバは働いていませんので\r\nここでモロッコのロバに\r\n登場してもらいました。\r\n従順で忍耐強い。力強くて、馬よりも小食。\r\n\r\nあとで街中の静かな路地を歩くと\r\n歩いてくるロバの姿を\r\n一瞬想像出来るかもしれません。\r\n\r\nBlog-11-111\r\n\r\nそれから「よく歩いたトレド」の事ですが、\r\nトレドや、セゴビアの町のように\r\n歴史ある都市は案外鉄道から\r\n離れている事があります。\r\n\r\n最近は、\r\n鉄道駅やバス・ステーションからの\r\n町へのアクセスは良いようです。\r\n\r\nもう一度トレドへ\r\n\r\nそして...昨年の夏。\r\n\r\nBlog-11-95\r\nいよいよ日本へ帰国することになり、\r\nその準備のため\r\n連日慌ただしい日々を送っておりました。\r\n\r\nでもその合間を縫って、\r\n『スペインとお別れする前に、もう一度トレドへ』と、\r\n思い切って出かけてみたのです。\r\n\r\nBlog-11-94\r\n\r\nそれまでにも、\r\nマドリードから近いこともあって\r\n何度も気軽に訪ねては市内を歩きました。\r\nしかし、今回は迷わず町が一望出来る\r\n対岸の丘にまず向かいました。\r\n\r\nここからですと\r\n思い出深い古い家並みや坂道、\r\nまた町の右手や中央の\r\n大きな建造物もとても良く見えます。\r\n\r\nBlog-11-27\r\n\r\n『アルハンブラ物語』のトレド\r\n\r\nところでトレドの名は有名で、\r\n小説の中にも度々登場しています。\r\n\r\n例えば、\r\nワシントン・アーヴィングが著した\r\n『アルハンブラ物語』(下巻)。\r\n\r\nその中に\r\n「アフメッド・アル・カーミル王子の伝説\r\n― 恋の巡礼行き」が収められていて、\r\n中世トレドの町の風景を\r\n描写する一説があります。\r\n\r\nBlog-11-22\r\n\r\n話の内容は簡単に言えば、\r\nイスラーム教徒であるグラナダ王国の王子と、\r\nトレドに住まわれるキリスト教国の\r\n姫君との恋物語です。\r\n\r\n両者共に「箱入り息子と娘」扱いを受け、\r\n成長したこの2人が、\r\nやがて鳥たちを介して結ばれる...。\r\n\r\n物語りの中で、\r\nグラナダのお城から飛び出た王子が\r\nフクロウとオウムを連れ、長旅の末に\r\nはるかにトレドの町が一望できる場所に\r\n一行が辿り着きます。\r\n

Blog-11-23

\r\nその辺りを少し、引用してみましょうか。\r\n\r\n...一行は、タホ川がごうごうと岩根を噛み、\r\n ぐるりと巻いて迸(ほとばし)り流れる\r\n 岩山の頂きに築かれた、城壁と幾多の塔の\r\n 聳える城壁の都を、はるかに遠望する地点に\r\n 辿り着いた。\r\n\r\nBlog-11-24\r\n\r\n...フクロウが大声で言った。\r\n 「遠き昔よりその名も高き都、\r\n 幾多の伝説で音に聞こえたトレドの都です。\r\n ほれ、古めかしく、輝かしい伝説で飾られた、\r\n あのドームと塔をご覧下さい...」\r\n\r\nBlog-11-25\r\n\r\n引用はここまでですが、\r\nお話の中では\r\nフクロウ対オウムの台詞を通じて\r\n「人とは?人生とは?」を私達に投げかけ、\r\n\r\nまたラストでは\r\n2人が宮殿から空飛ぶ絨毯で\r\n仲良く飛び去るなど、\r\n夢のあるシーンも用意されています。\r\n機会がございましたら是非ご一読を♪\r\n\r\nそれではアーヴィングの\r\n『アルハンブラ物語』のお話はこの辺で...。\r\n\r\nBlog-11-26\r\n\r\n坂の途中で撮影をしておりますと、\r\n楽しげな声が近づいてきます。\r\n振り向くと、町の広場前から出発した\r\n観光用の乗り物が坂を上って来ます。\r\n\r\nアーヴィングが\r\n物語で書いたような古都と、\r\nそれを包み込むように\r\n弧を描いて流れるタホ川の、\r\n素晴らしい眺めに\r\n乗客が感動するまであともうすぐです。\r\n\r\n「アルカサル」と「カテドラル」\r\n\r\nさてここから町の大きな建物を\r\n2つご紹介致します。\r\n\r\nBlog-11-130\r\n先程、\r\n対岸から眺めたトレドの全景を\r\n思い出して頂けますか。\r\n\r\n右手、町の一番高い場所には\r\n四隅に黒い屋根の塔を配置した”Alcázar”\r\n「アルカサル」(城塞)が聳えています。\r\nとても古いお話ですが、3世紀には\r\nここにローマ人の宮殿がありました。\r\n\r\nトレドはイベリア半島が\r\nローマ人支配下に入った時から\r\n重要な町の1つでした。\r\n\r\n「全ての道はローマに通ず」と言う格言。\r\nその意味は別として、\r\nトレドは「ローマ街道」沿いに\r\n建てられた町からも\r\n改めてスペインの歴史の古さを感じさせますね。\r\n\r\nBlog-11-29\r\n\r\nこのアルカサルは、\r\nトレドがキリスト教徒のレコンキスタ、\r\nつまり「国土再征服運動」によって\r\n手に渡った11世紀以降に改修、\r\nその後復元がなされています。\r\n\r\n現在私達が目にしている姿は、\r\n13~15世紀の間にかけて行われたものが\r\n元になっていると言われています。\r\n\r\nBlog-11-30\r\n\r\nこの建造物の用途も、\r\n時代につれて変遷しています。\r\n王家の監獄から軍営や軍学校まで、\r\n中には絹工場として\r\n使用された時代もあったとか。\r\n\r\nそして...。\r\n1930年代のスペイン内戦で\r\n壊滅的な被害を受けました。\r\nしかしその後復元されて、現在は\r\n軍事博物館になっています。\r\n\r\n次にもう1つの建造物をご紹介します。\r\n\r\n写真右手をご覧下さい。\r\n周囲の建造物よりひときわ目立つ\r\nゴシック様式の”Catedral Primada”\r\n「トレドの大聖堂」です。\r\n\r\nBlog-11-31\r\n\r\nカトリックの大聖堂では世界最大級であり、\r\n13~15世紀にかけて造営されました。\r\n完成時には、それまでの多々ある建造物を\r\n圧倒した事でしょう。\r\n\r\n現在でもこの2つの建物は\r\n町のランド・マーク。\r\n通りを歩くとその立派な姿を\r\n見せてくれます。\r\n\r\n画家エル・グレコの描いた町\r\n\r\nこの2つの建造物を入れて\r\nタホ川と共に描いた画家がいました。\r\n\r\nBlog-11-99\r\n\r\n1614年に生涯を閉じるまで\r\nこの地で生きた\r\nギリシャ・クレタ島生まれの\r\nエル・グレコです。\r\n\r\nところで\r\n彼の作品「トレドの眺め」は、\r\n1つの心象風景とも言われていますが、\r\n作品を観て次のような印象を受けました。\r\n\r\nBlog-11-100\r\n\r\nトレドを覆う町空は\r\n光溢れ躍動する雲\r\nタホ川に架かる古橋に\r\n風に遊ばれる河畔の草木\r\n急坂のある街並みに聳えるは\r\nアルカサルとカテドラル\r\n\r\nBlog-11-96\r\n\r\nまた、川を渡ってトレドに入るには\r\n2つの古い橋があります。\r\n1つは、エル・グレコの描いた\r\n「アルカンタラ橋」。\r\n町の坂道や良く保存された家々、\r\nまたタホ川を挟んで\r\n「サン・セルバンド城」も見えます。\r\n\r\nもう1つは\r\nちょうど町の反対側に位置している\r\n「サン・マルティン橋」です。\r\n\r\nBlog-11-102\r\n\r\nどちらの橋でも途中で足を止めて\r\nゆっくりトレドの街並みを眺めるのも\r\n楽しいものです。\r\n\r\n立ち話が長くなってしまいましたね。\r\nそろそろ町の中へ行ってみましょうか。\r\n\r\nBlog-11-101\r\n\r\n「ソコドベール広場」\r\n\r\n\r\n町がある丘に上がると\r\n”Zocodover”「ソコドベール広場」が\r\nすぐ目に入る場所にあります。\r\n先程の乗り物”Zocotren”「ソコトレン」も\r\nここから出ています。\r\n\r\nソコドベールは、\r\n広場の名前の頭についた\r\n”Zoco” (ソコ)とは「スーク」のこと。\r\n伝統的なアラブ諸国の「市場」の他、\r\n社会生活の中心の場所でもあります。\r\n\r\nBlog-11-34\r\n\r\nある歴史家によれば、\r\nここにはアラブの家畜の市が立ち、\r\nその後キリスト教徒支配下では\r\n穀物市場に変化したとか。\r\nいずれも商談する声で\r\n大いに賑わっていたのでしょうね。\r\n\r\nとは言え、現在ではこの広場自体、\r\n当時のアラブの市場の面影は\r\n「ほとんど」と言って良いほど\r\n残っていません。\r\n

Blog-11-35

\r\nこの門の名は”Arco de la Sangre”\r\n「アルコ・デ・ラ・サングレ」。\r\n10世紀に建てられた門の反対側は\r\n馬蹄形アーチになっていて\r\n当時はアラビア語で”Bab-al-Yayl”と、\r\n呼ばれておりました。\r\n

Blog-11-59

\r\n門から向こう側、\r\n今ご覧になっている辺りの地区は\r\nかつては城塞の中。\r\n\r\n城壁で囲まれた都市には\r\nさらに内側に「もう1つの城壁」が\r\n存在したのです。\r\n\r\nところで先程のアルカサルの説明で、\r\nスペイン内戦の話をしました。\r\n当時の写真を何枚か見ましたら、\r\n残念なことにこの辺りも\r\n一部を除いてほぼ破壊されていました。\r\n\r\nBlog-11-60\r\n\r\nそれを物語るように\r\n門の上には広場の名前と、\r\n”RESTAURADO 1945″の文字。\r\n\r\nこのプレートには、\r\n内戦後6年経過した1945年に\r\n復元された事を表しています。\r\n\r\nいずれにしても\r\nアルカサルもこの門も含めて、\r\n見事に復元されて\r\n本当に良かったと思っています。\r\n\r\n「歴史の小箱」を開けて\r\n\r\nさて...。\r\nトレドの歴史がとても古い事は\r\nすでに述べました。\r\n\r\nこの町の歴史を\r\n仮に各時代の「小箱」で\r\n仕分けが出来るとしたら、\r\n歴史を成す一粒、一粒が\r\nぎっしり詰まった箱の数が\r\n幾つも必要になることでしょう。\r\n\r\nBlog-11-36\r\n\r\n選ぶのならば\r\nやはり「トレド」らしさ、\r\n言い換えれば\r\n「スペイン文化が凝縮された都」を\r\n決定づけた箱を\r\n開けてみようかと思います。\r\n\r\nBlog-11-37\r\n\r\nさて、どれを選びましょうか。\r\nそうですね...。\r\n街中を歩きながらスナップした感想から、\r\n\r\nBlog-11-38\r\n\r\nやはり選んだ小箱は\r\n「中世」の箱にするでしょうね。\r\n\r\nその理由とは、3つの色どりを放つ\r\n歴史の粒々が良く混ざっているからです。\r\n\r\nBlog-11-131\r\nその3つとは、キリスト、イスラーム\r\nそしてユダヤ教徒達。\r\n\r\n特に彼等がトレドに共存していた\r\n11~14世紀の時代です。\r\n\r\n“Blanco y Negro” \r\n「白黒」アルバムから\r\n\r\nBlog-11-40\r\n\r\nさてここから先は気分をかえて\r\n白黒写真をご覧になって頂きながら\r\nお話を進めていきます。\r\n\r\n白黒で撮るのも楽しいので、\r\n以前からよく撮っておりました。\r\nこのトレドの風景も\r\n私にとって1コマ、1コマ\r\n思い出深いものばかりです。\r\n\r\nカラーとまた異なる「トレド」の表情を\r\nどうぞ味わってみて下さいね。\r\n\r\nBlog-11-41\r\n\r\nイスラーム教徒支配下の時代\r\n\r\nさて、先程まで確か...\r\n「中世」の小箱迄、\r\n話をしていましたね。\r\n\r\nでも考えてみましたら、\r\n中世スペインの\r\nトレドの立ち位置を\r\nいきなりお話しするのは\r\nちょっと解りづらいかも\r\nしれませんよね...。\r\n\r\nそれもキーワードは3つだけ。\r\n11~14世紀。トレド。\r\n3つの宗教。\r\n\r\nBlog-11-83\r\n\r\nやはり一旦ここで\r\n当時の様子を簡単に\r\nご説明しようと思います。\r\n少しの間お付き合い下さいね。\r\n\r\nスペインのあるイベリア半島は\r\n711年までキリスト教徒である\r\nゲルマン系西ゴート族が\r\n数世紀支配していました。\r\nところがこの年以降、\r\n半島の支配図が一気に変化します。\r\n

Blog-11-110

\r\nでは、キリスト教徒の動きから...。\r\n\r\n北アフリカから侵攻してきた\r\nイスラーム教徒。\r\n西ゴート族は彼等に\r\n半島北部アストゥリアスまで\r\n追いやられてしまいます。\r\n

Blog-11-84

\r\nアストゥリアスの山並みは、\r\n先程「スペインの秋」で\r\nすでにご存じですね。\r\nそうです、あの山岳地帯です。\r\n\r\n追い詰められたその地で\r\n彼等が建国したのが「アストゥリアス王国」。\r\n\r\n後のレオン王国、\r\nカスティージャ王国だったのです。\r\n\r\nBlog-11-85\r\n\r\nその後キリスト教徒は、\r\n何と800年近くかけて\r\n半島北から南へとレコンキスタ\r\nつまり「国土再征服運動」を\r\n推進します。\r\n\r\nそして...1492年。\r\nイスラーム教徒の\r\n「グラナダ王国」を陥落させ、\r\nレコンキスタが完了します。\r\n

Blog-11-44

\r\n一方のイスラーム教徒の動きです。\r\n「破竹の勢い」で半島の大部分を\r\n手中に収めたイスラーム教徒。\r\n\r\n支配した領域は\r\n「アル・アンダルース」と呼ばれ、\r\n最初の王朝「後ウマイヤ朝」は\r\n756年、南スペイン・コルドバに\r\n首都が置かれました。\r\n\r\n当時、ヨーロッパの中でも\r\n高度で華麗な文化や\r\n商業が盛んだった都でした。\r\n\r\nBlog-11-86\r\n\r\nそれではこの辺りから、\r\nトレドの町を登場させましょう。\r\n\r\nイベリア半島の中央より\r\nやや南に位置するトレドは、\r\nキリスト教徒の手に渡るまで\r\n400年近くアル・アンダルースの\r\n領域にありました。\r\n

Blog-11-52

\r\nこのイスラーム教徒支配下に\r\n入った先住民達、キリスト、ユダヤ教徒は、\r\nどうなったと思われますか。\r\n\r\nイスラーム教徒は\r\n宗教に「寛容」だったようで、\r\nトレドの先住民達も\r\n同じ一神教信者の信仰の自由を保証し、\r\n共存しておりました。\r\n\r\nBlog-11-43ところが1031年以降、\r\nこのイスラームの王朝は滅亡し、\r\n”Taifa”  「タイファ諸王国」、\r\nつまり小さな王国に分裂してしまいます。\r\n

Blog-11-89

\r\n興亡治乱の原因は、\r\n「市民戦争」という\r\n内部から振り下ろした拳。\r\n\r\nBlog-11-87\r\n\r\n彼等自身が欠片になることは、\r\n小国=弱体化を意味します。\r\n\r\nその出来事を\r\n「高みの見物」をしながら、\r\nほくそ笑んでいたのは\r\n他ならぬキリスト教徒だったのは\r\n言うまでもありません。\r\n\r\nBlog-11-42\r\n\r\n正にキリスト教徒にとって、\r\n『チャンス到来!』でした。\r\n

Blog-11-90

\r\n「トレド王国」\r\n\r\nタイファ王国へ分裂以前のトレドは\r\n自治を行っていながらも\r\n都コルドバのアミール(首長)に対して、\r\n従属しなくてはならない立場にありました。\r\n\r\nBlog-11-46\r\n\r\n皮肉な話ではありますが\r\n先の王朝崩壊により、\r\nトレドの人々にとって\r\n「トレド王国」の首都として\r\n独立した自治を歩んでいく事が\r\nようやく可能となったのです。\r\n

Blog-11-97

\r\nまた、\r\nトレドのイスラーム文化が\r\n開花する出発点もこの時でした。\r\n\r\nアルフォンソ6世の手に渡ったトレド\r\n\r\nそれから50年後の\r\n1085年。\r\n\r\n後ウマイヤ朝から独立した\r\nイスラームのトレド王国もまた\r\n終焉を迎える日がやって来ます。\r\n

Blog-11-47

\r\nその理由は、\r\nまたもや内紛によるものでした。\r\nそれに乗じたキリスト教国の\r\n「レオンとカスティージャ」王である\r\nAlfonso (アルフォンソ)6世は\r\n4年間町を包囲した後、\r\n\r\nBlog-11-103\r\n町の人々からほとんど抵抗もなく\r\nトレドを、そしてアルカサル(城塞)を\r\n手に入れたのです。\r\n\r\nこれは、アル・アンダルースとの\r\n辺境線もタホ川南まで下がり、\r\nレコンキスタもぐんと進んだ事を意味します。\r\n

Blog-11-49

\r\n町に入場したアルフォンソ6世は\r\n「三宗教の皇帝」と名乗り、\r\nイスラーム支配下の時代のように\r\n三者が共に生きる町にしたと\r\n伝えられています。\r\n\r\nその背景には\r\n「むやみなイスラーム教徒の追放は、\r\n町に経済的混乱を招くだけ...」。\r\n彼等の財産、主要なモスクも\r\nそのまま継続を許可したのでした。\r\n\r\nBlog-11-91\r\n\r\n町は王によって\r\nスペインの首座大司教権や\r\n大司教区を再開設され\r\n宗教的な首都になる一方、\r\n\r\n以前からあった\r\nイスラーム教徒の商取引は継続し、\r\nこうしてトレドをキリスト教徒の\r\n新たな軍事的な礎(いしずえ)としたのです。\r\n\r\n中世トレド・町の3つの色どり\r\n\r\nさて今度は、この時代の3つの色どりに輝く\r\n人々に触れたいと思います。\r\n\r\n手元に11世紀~13世紀の\r\n町の地区を表した地図があるのですが、\r\n当時の様子はどのようであったと\r\n思われますか。\r\n\r\nBlog-11-54\r\n\r\nイスラーム教徒時代の\r\n堅牢な城壁が\r\n囲んでいた町の中...。\r\n\r\nBlog-11-55\r\nキリスト教徒支配下に入り\r\n異教徒達である\r\nイスラーム教徒の地区や、\r\n\r\nユダヤ教徒の地区を\r\n新たに区分けしていました。\r\n\r\nBlog-11-50\r\n\r\nまた、少しややこしいのですが\r\n以前イスラーム教徒支配下で\r\nキリスト教を信仰していた\r\nキリスト教徒 “Mozarabe”\r\n「モサラベ地区」なども存在しました。\r\n

Blog-11-56

\r\nトレドを実際歩かれると、\r\n「シナゴーグ」と呼ばれるユダヤ教の礼拝堂や\r\n上のような古いイスラーム教のモスク、\r\nまた教会の他、\r\n修道院や聖堂を見ることが出来ます。\r\n\r\nやはり「中世の都 トレド」と表現される\r\n所以はここにあるようです。\r\n\r\nトレドのムデハル様式\r\n\r\n次に下の写真のファザードを\r\nご覧下さい。\r\n煉瓦を精巧に積み上げていますね。\r\n

Blog-11-57

\r\nじっと眺めている中に、\r\n独特の建築様式を\r\n感じることが出来ませんか。\r\n煉瓦での幾何学紋様。\r\n\r\n馬蹄形アーチのドーム。\r\n

Blog-11-104

\r\n例えば、日本で言う\r\n「和洋折衷」の明治時代の建築を\r\n思い描いて頂ければ良いのでしょうか。\r\n\r\nBlog-11-105\r\n\r\nこのトレドを\r\n「トレドらしく」しているのは、\r\n実は数多くの”mudéjar” 「ムデハル様式」と\r\n呼ばれる建造物が\r\n存在するからなのです。\r\n\r\nこのムデハルとは、\r\n11世紀~16世紀に建てられた\r\nスペイン・イスラームの影響を受けた\r\nロマネスク、ゴシックや\r\nルネッサンス様式と\r\n結びついた建造物のことです。\r\n\r\nBlog-11-61\r\n\r\n上の写真も、\r\nムデハルとゴシック様式が融合した\r\nフランシスコ会修道院です。\r\n\r\nサン・マルティン橋からもよく見え、\r\n修道院の屋根や、尖塔群の眺めが\r\nとても印象的でした。\r\n\r\nBlog-11-62\r\n\r\n皆それぞれが安心して\r\nキリスト教会、モスク、シナゴーグへ\r\n通うことが出来た時代。\r\n\r\nとは言え、まだまだキリスト教徒による\r\nレコンキスタは完了していません。\r\n\r\n先に述べたように、タホ川より南は\r\nアル・アンダルースとの境界でしたから。\r\n当時のトレドの街中にはマントを羽織った\r\n戦士達の姿も見られたはずです。\r\n\r\nBlog-11-106\r\n\r\nそしてアラブ時代の名残...。\r\n迷路になった狭い通りが\r\nたくさん残っています。\r\n\r\n貴方が下のような路地を通る時、\r\n昼間なら水運びのロバに出会い、\r\n

Blog-11-63

\r\n人通りが少なくなった夕闇の中なら\r\n『自分と今すれ違ったのは、\r\nランタンや松明を持った昔の人達?』\r\nそんな気分にさせてくれる事でしょうね...。\r\n

Blog-11-68

\r\nこのように「トレドらしい」建造物が\r\nここかしこに溢れています。\r\nムデハル様式、\r\nおわかりになって頂けましたか。\r\n\r\n3者による翻訳作業\r\n\r\nもう1つ、\r\nこの3者がこの町で\r\n共に生きた証があります。\r\n\r\nBlog-11-107\r\n\r\n12世紀~13世紀にかけての\r\n「トレド翻訳学校」の存在です。\r\nこの学校の存在は、\r\n当時ヨーロッパでも\r\n知識人の中心地となりました。\r\n\r\n「学校」と名がついていますが、\r\n一般の学校とは異なります。\r\n実はここでは宗教にこだわることなく、\r\nイスラーム、ユダヤ、キリスト教徒の\r\n学識者が一体となって、\r\n\r\nBlog-11-108\r\nアラビア語やヘブライ語で\r\n記述された学術書や\r\nギリシャ古典等を、ラテン語や\r\nスペイン・カスティージャ語に\r\n数多く翻訳された場所なのです。\r\n\r\nBlog-11-109\r\n\r\n \r\n\r\nかつてイスラーム教徒の賢者達は\r\n彼等の勢力範囲の拡張に伴って、\r\nギリシャ古典のみならず、\r\nペルシャやヒンドゥなど\r\n「東洋の知識」を吸収して\r\n身につけていきました。\r\n\r\nBlog-11-65\r\n\r\nそして\r\n彼等の学んだことを\r\n自分達の言語に変換し、\r\nさらに重要なのは、\r\n自身の解釈を付けて\r\n「本」として残したのです。\r\n\r\n私達も彼等から学ぶべき姿が\r\nここで見つかりそうですね。\r\n

Blog-11-66

\r\nこの頃、ヨーロッパでは、\r\nギリシャ古典の哲学や科学は\r\n知られておりませんでした。\r\n\r\nですから、共同作業で\r\n翻訳を進めていった事は、\r\n学術的に後のヨーロッパの人々にとって\r\n多大な影響を与えたことは\r\n想像に難くないと思います。\r\n\r\nところが14世紀になると徐々に\r\n彼等に暗い影が落とし始めます。\r\n

Blog-11-70

\r\nペストの流行。\r\n経済的な問題による社会不安。\r\n14世紀末には民衆の不満のはけ口が\r\nまず裕福なユダヤ教徒へ向けられます。\r\n\r\nBlog-11-71\r\n\r\nすでに\r\n第8話「モハカールの今昔」で述べましたので\r\nここでは詳細な経緯は割愛しますが\r\nユダヤ教徒始め、そしてイスラーム教徒も\r\nやがて国外追放される日を\r\n迎える事になるのです。\r\n

Blog-11-67

\r\nこうしてみますと平和な世の中は\r\nいつの時代でも「つかの間」。\r\n本当に長続きしないものですね...。\r\n

Blog-11-69

\r\nそれでは\r\n中世トレドのお話もこの辺で。\r\n\r\nそうでした...!\r\n開けた中世の小箱は、\r\n蓋を閉めて元の場所へ\r\nきちんと戻しておきますから...。\r\n\r\nどうぞご心配なく♪\r\n\r\nBlog-11-72\r\n\r\n本日ラストの秋色達\r\n\r\nさて今回は日本の秋を、\r\nそしてマドリードから\r\n伸びている道を通して旅した\r\nスペインの秋を幾つかご覧頂きました。\r\n\r\nアランフエスの軽い散策から\r\n水の道、タホ川を辿って古都トレドへ。\r\nトレドの歴史話は\r\n如何でしたでしょうか?\r\nトレドは「語る場所多き」で、\r\n実はまだまだ語り尽くせません。\r\n\r\nラストの写真はまずスペインから3枚を、\r\nそして日本の秋色の華やかな景色を2枚\r\n選んでお届けします。\r\n

Blog-11-75

\r\nそう言えば\r\nお話しておりませんでしたが\r\nマドリードッ子達に\r\n「トレドへは行ったことがある?」と、\r\n尋ねられたり、勧められたりしました。\r\n\r\nBlog-11-76\r\n\r\n私もトレドへ旅する前知識として、\r\n「3つの文化が融合された古都」と、\r\nこのように思っておりました。\r\n\r\nBlog-11-77\r\n\r\nでもそれだけではなく、\r\nアルフォンソ6世が\r\nかつての西ゴート王国の首都を\r\nレコンキスタしたことが、\r\nその後の推進活動に\r\nいかに弾みがついたことか...。\r\n\r\nBlog-11-78\r\nある意味、キリスト教徒である\r\n現在の多くのスペイン人にとって\r\n「心のふるさと」なのかもしれません。\r\n\r\nそしてまた、この独特のトレドらしさとは\r\nスペインらしさにも繋がるのです。\r\n\r\nBlog-11-73\r\n\r\n次回も引き続きトレドより\r\n白黒写真を中心に\r\n「現代の街角の表情」を\r\nお届けしようと思います。\r\n\r\nそれからブログUPを\r\n大変お待たせしてしまいました。\r\n\r\n最後までご覧頂きまして\r\nありがとうございました。\r\n\r\nお知らせ\r\n\r\nお知らせが2つございます。\r\n\r\n「ブログ更新のお知らせ」登録手続きのご案内\r\n\r\nいつもご購読ありがとうございます。\r\n ブログは通常2ヶ月前後で更新しております。\r\n尚、不定期更新のため\r\n 次回よりご希望がある方には\r\n 直接その旨をお知らせさせて\r\n 頂くことに致しました。\r\n\r\nご希望の方は\r\n お手数ではございますが\r\n こちらよりご登録下さいますよう\r\n お願いいたします。\r\n\r\nなおご登録頂いた情報は\r\n ブログ更新のご案内のみに使用し、\r\n 第三者に譲渡することはございません。\r\n\r\n前回ブログ「第10話」\r\n アーモンドに関する訂正とお詫び\r\n\r\n前回ブログのお話で\r\nアーモンドがスペインへ入ってきた経緯に\r\n誤りがございました。\r\n\r\nアーモンド栽培の起源と、補足的に\r\nスペイン語の語源も合わせて\r\n 食材辞典や語源学関係、\r\nその他の資料を幾つか調べてみました。\r\n\r\nまず、\r\nヨーロッパへ広まった経緯は、\r\n 「アーモンドの実は西南アジアから\r\n ギリシャ、ローマへともたらされ、\r\n その後ローマ人によってヨーロッパへ\r\n 広まった」とされています。\r\n\r\nまたフェニキア人によって\r\n スペインへもたらされた説もあります。\r\n\r\nもう1つ、\r\nスペイン語の「アーモンド」の語源からも\r\n調べてみました。\r\nスペイン語でアーモンドは\r\n“almendra”(アルメンドラ)と言います。\r\n\r\nスペイン語には、\r\n例えば”alcohol” 「アルコール」など\r\n“al” で始まるアラビア語源の言葉があります。\r\nただ今回の”almendra”のように\r\n 例え”al” で始まっていても\r\n アラビア語源でない言葉も存在するので\r\nすこし厄介です。\r\n\r\n\r\nそこで\r\nRoyal Spanish Academyの\r\n 電子辞書(2001年度版)や、\r\n 小学館『西和中辞典』(1990年度版)を見てみますと、\r\n スペイン語のアーモンド、\r\n「アルメンドラ」はどちらの辞書にも共通して\r\namyndăla (ラテン語)が由来と記述されています。\r\n\r\n 結果、前述の\r\n「ローマ人によってヨーロッパへ広められた」こと、\r\nまた上記の語源内容からも\r\n 少なくともイスラーム教徒が\r\n侵攻する以前に\r\nイベリア半島にアーモンドが\r\n すでに実っていた事になります。\r\n\r\n以上のことから、\r\n問題の箇所を削除すると共に\r\n ご迷惑をおかけした事に対し\r\nここにお詫びを申し上げます。