第11話 道 (I)  秋景色からトレドへ

On

台風が過ぎ去った後に

早朝に台風が過ぎ去った日の午後、
外へ少し出てみました。
前日まで出口のない暗く覆い被さった空は、
すっかり様変わり...。

目の前を渦巻く白や灰色の雲が
刻々と姿を変えながら通り過ぎ、
その様は空中に浮かんだ機関車から
はき出す濛々たる煙にも見えます。

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やがて次々とやって来る雲は
茜色に染まり始め、
雲間から漏れ出す筋状の光もまた
大地を照らし、
鮮やかな夕空へと
変わっていきました。

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今秋は、
何と台風が多い年だったのでしょう。

そう言えば台風が来る度に
「秋」が深まっていくのだと
聞いたことがありますが
その理由をご存じですか。

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さて、スペインにおりました時、
外国暮らしが慣れたとはいえ
やはり故国日本の秋は風情があって
この季節が巡る度、
日本の景色を懐かしく
思い出されることがありました。

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当時心に描いていた風景とは、
朱色に熟した艶やかな柿の実。

そして風が舞い上がる度に、
一人歩きしていく柿の葉。

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また神社や寺院、
公園の銀杏並木。

晩秋の空に広がる
葉の色や形の美しさ。

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ふと足を止め
見上げるのは、斑模様の雑木林。

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そして「自然」の絵筆で、
色づけされた
赤・緑・黄色の葉は
里山の秋色でした。

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スペインの秋色

一方、スペインでも
秋景色が美しい場所が
たくさん存在します。

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住んでおりましたマドリードは
スペインの首都。
ここからは大きな自動車道が6つ
放射状に伸びています。

一旦、都市周辺部の
産業団地を外れますと、
道の両側には自然の風景が広がります。

丘の上には古城、
その麓には教会や村があって、
とても絵画的な場所がたくさんあります。

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それでは
これらの自動車道を利用して
秋景色を何カ所か
ご案内したいと思います。

北部スペイン

地方出身者が多いマドリードの知人達に
「紅葉が美しい場所は何処かしら?」と、
訪ねますと、

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誇らしげに出身地の
「ご当地自慢」と思いきや、
意外にも紅葉の美しさならば
北部のAsturias、
「アストゥリアス州(または公国)」と言います。

緑多きアストゥリアス地方の風景

アストゥリアスは
海岸線からすぐに険しい山々が
聳え立つような地形が
特徴と言えます。

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たまたま訪れた季節は初夏でした。
ですから、峠から一望できる山の景色は清々しく
緑の牧場には牛が放牧されていました。

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この時は紅葉の景色は
望めませんでしたが、
次は山が色づく季節に
訪ねることが出来たなら...と、
思っています。

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また土地柄酪農が有名なので、
スペインのマーケットでは
牧場の写真や図柄のついた
アストゥリアス産の乳製品を、
日頃よく見かけたものです。

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葡萄畑の秋

もう1箇所
北部でも少し内陸に入った
スペイン・ワインの有名な産地、
“La Rioja” 「ラ・リオハ州」の
葡萄畑の秋をご覧下さい。

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ここを訪れたのは10月の初旬で
紅葉が幾分早いようでしたが、
それでも赤・紫の葡萄の葉の
美しさが見事でした。

南部アンダルシア地方の秋

さて、
こちらはある村はずれの地方道。
道路脇で見つけたのは、
取り残されたマルメロの実。

この果肉はジャムにして
ナチュラル・チーズに載せて頂くと
チーズの塩味に甘さが加わって
ひと味違ったデザートになります。

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マルメロがあった村から20㎞程で
“Granada” 「グラナダ」の町に到着です。

こちらはAlhambra(アルハンブラ)宮殿のある丘で
見つけた蔦(ツタ)の葉。

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スペイン南部と言えども
日が陰ったグラナダの秋の午後は、
思いの外寒かった記憶があります。

それは、町の背後に聳える
ネバダ山脈からの寒気でしょうか。
ほら、見ているとひんやりしてきて
思わず手をこすり合わせたくなりませんか。

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“nevada” 「ネバダ」とはスペイン語で
「雪の積もった」、
「雪に覆われた」の意味から、
この山脈の寒さも
想像がつきそうですね。

そしてスペイン中央部の秋

スペインの北部・南部の景色は
如何でしたでしょうか。
ここで首都マドリードをご覧下さい。

街には黄葉した街路樹が
煉瓦建築に良く似合います。
このようにプラド美術館裏にある
「レティーロ公園」も
夏の観光シーズンから開放されて、
都会らしく洗練された
公園の秋を満喫出来ます。

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マドリード郊外、
北に広がる中央山系の麓にも
お連れしましょう。

霧でしっとりと覆われた山間の風景。
手前と奥に石垣があることから、
ここでは家畜を放牧するのでしょうね。

また枯れ草が積み上げられた眺めは、
何故か日本でなくとも
郷愁を覚えませんか...。

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もう1箇所、
静かな「秋の一日」を
お散歩をしながら過ごすのであれば、
マドリードから南へ50㎞程離れた
“Aranjuez” 「アランフエス」の町がぴったり。

そんなアランフエスの秋の表情を
少しご紹介します。

ここには16世紀半ば
Felipe (フェリーペ)2世の命によって
建築されたスペイン王家の離宮があります。
途中何度かの火災に遭いましたが、
200年の歳月をかけて見事に完成します。

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上の写真は、”Iglesia de San Antonio”
「サン・アントニオ教会」。
離宮へ向かう途中の広場の奥に
位置しているので、
広場と一体感がある教会です。

荘厳な離宮や、美しい庭園のある
この小ぶりな町アランフエス。

王宮付近の道や広場だけでなく、
少し外れた道路脇の並木でも
静かに散策することが出来ます。

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並木の窪みには、
落葉がこんもりと溜まっています。
子供時代のように
ここを少し歩いてみませんか。

夏の間、
高い枝に青々と茂っていた葉。

今は自分の靴の周りに色々集まって、
一歩、一歩、足を踏み出す度に
歯切れ良く奏でる音。
それは「スタッカート記号」が付いた
音符そのもの。

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ところでアランフエスの町は、
昔の地方名で呼ぶならば、
“Castilla” 「カスティージャ地方」の
オアシスと言われています。

アランフエスのある
スペイン中央部の特徴は、
内陸性気候のため乾燥が厳しく
褐色で、乾いた大地が広がっています。

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ところが、
車でマドリードからアランフエスへ
到着する前になると、長い下り坂から
見える景色は一変します。

眼下に広がるのは緑溢れる沃野。
アランフエスの農産物で有名なのは
「苺」や「グリーン・アスパラ」。
アランフエスはマドリード州にあるので
言わば定評ある「マドリード・ブランド」の
農産物と言えるのではないでしょうか。

 

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それから説明が前後しましたが、
ここの土地が肥えているのは
スペインからポルトガルへと流れている
「タホ川」流域にあるからです。

川は町の外でもう1つの川と合流し、
南西へと蛇行しながら
“Toledo” 「トレド」へと
「水の旅」を続けていきます。

トレドではこのタホ川、
どんな姿を見せてくれるのでしょうか...。

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お話の前半が終了

さて、
第11話の前半部分をご覧頂きまして
ありがとうございました。
ここで
一旦「休憩時間」のご案内を
させて頂きました。

後半のお話を時間を置いて

改めてご覧になる方も
いらっしゃると思います。

尚、恐れ入りますが
「休憩時間」の長さに関しましては、
ご自分で設定していただきますよう
お願い致します(笑)。

後半はボリュームも多めです♪

***   ***   ***   ***   ***   ***   ***

これより後半部分です。
前半同様、
またごゆっくり
お楽しみ下さいね。

トレドの旅

もう随分前のことです。
スペインに来て間もなく
それもマドリードへ
到着したばかりの数日後に、
記念すべき初めての列車の旅をしたのは
トレドでした。

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この旅も
「古都をゆっくり楽しんだ」と言うより、
むしろ慣れない強い日差しの下、
鉄道駅から丘にある町中を
一日中よく歩いた事の方が
記憶に残っています。

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町の城門「ビサグラ門」から、
しばらく上り坂が続きます。
途中で一旦休み、
もう少し続く坂を眺めていると
「水不足の島」と言われた
トレドの昔をふと思い出しました。

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ここは岩の上に建つ町ゆえ、
タホ川から機械を駆動させる
汲み上げ方法は、16世紀まで
待たなくてはならなかったのです。

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ですから飲料水の確保に苦心し、
それ以前は雨水を溜めるか、
もしくは下の川から
ロバに運んでもらう方法しかなく、
生活も大変でした。

現在のトレドでは
ロバは働いていませんので
ここでモロッコのロバに
登場してもらいました。
従順で忍耐強い。力強くて、馬よりも小食。

あとで街中の静かな路地を歩くと
歩いてくるロバの姿を
一瞬想像出来るかもしれません。

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それから「よく歩いたトレド」の事ですが、
トレドや、セゴビアの町のように
歴史ある都市は案外鉄道から
離れている事があります。

最近は、
鉄道駅やバス・ステーションからの
町へのアクセスは良いようです。

もう一度トレドへ

そして...昨年の夏。

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いよいよ日本へ帰国することになり、
その準備のため
連日慌ただしい日々を送っておりました。

でもその合間を縫って、
『スペインとお別れする前に、もう一度トレドへ』と、
思い切って出かけてみたのです。

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それまでにも、
マドリードから近いこともあって
何度も気軽に訪ねては市内を歩きました。
しかし、今回は迷わず町が一望出来る
対岸の丘にまず向かいました。

ここからですと
思い出深い古い家並みや坂道、
また町の右手や中央の
大きな建造物もとても良く見えます。

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『アルハンブラ物語』のトレド

ところでトレドの名は有名で、
小説の中にも度々登場しています。

例えば、
ワシントン・アーヴィングが著した
『アルハンブラ物語』(下巻)。

その中に
「アフメッド・アル・カーミル王子の伝説
― 恋の巡礼行き」が収められていて、
中世トレドの町の風景を
描写する一説があります。

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話の内容は簡単に言えば、
イスラーム教徒であるグラナダ王国の王子と、
トレドに住まわれるキリスト教国の
姫君との恋物語です。

両者共に「箱入り息子と娘」扱いを受け、
成長したこの2人が、
やがて鳥たちを介して結ばれる...。

物語りの中で、
グラナダのお城から飛び出た王子が
フクロウとオウムを連れ、長旅の末に
はるかにトレドの町が一望できる場所に
一行が辿り着きます。

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その辺りを少し、引用してみましょうか。

...一行は、タホ川がごうごうと岩根を噛み、
ぐるりと巻いて迸(ほとばし)り流れる
岩山の頂きに築かれた、城壁と幾多の塔の
聳える城壁の都を、はるかに遠望する地点に
辿り着いた。

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...フクロウが大声で言った。
「遠き昔よりその名も高き都、
幾多の伝説で音に聞こえたトレドの都です。
ほれ、古めかしく、輝かしい伝説で飾られた、
あのドームと塔をご覧下さい...」

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引用はここまでですが、
お話の中では
フクロウ対オウムの台詞を通じて
「人とは?人生とは?」を私達に投げかけ、

またラストでは
2人が宮殿から空飛ぶ絨毯で
仲良く飛び去るなど、
夢のあるシーンも用意されています。
機会がございましたら是非ご一読を♪

それではアーヴィングの
『アルハンブラ物語』のお話はこの辺で...。

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坂の途中で撮影をしておりますと、
楽しげな声が近づいてきます。
振り向くと、町の広場前から出発した
観光用の乗り物が坂を上って来ます。

アーヴィングが
物語で書いたような古都と、
それを包み込むように
弧を描いて流れるタホ川の、
素晴らしい眺めに
乗客が感動するまであともうすぐです。

「アルカサル」と「カテドラル」

さてここから町の大きな建物を
2つご紹介致します。

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先程、
対岸から眺めたトレドの全景を
思い出して頂けますか。

右手、町の一番高い場所には
四隅に黒い屋根の塔を配置した”Alcázar”
「アルカサル」(城塞)が聳えています。
とても古いお話ですが、3世紀には
ここにローマ人の宮殿がありました。

トレドはイベリア半島が
ローマ人支配下に入った時から
重要な町の1つでした。

「全ての道はローマに通ず」と言う格言。
その意味は別として、
トレドは「ローマ街道」沿いに
建てられた町からも
改めてスペインの歴史の古さを感じさせますね。

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このアルカサルは、
トレドがキリスト教徒のレコンキスタ、
つまり「国土再征服運動」によって
手に渡った11世紀以降に改修、
その後復元がなされています。

現在私達が目にしている姿は、
13~15世紀の間にかけて行われたものが
元になっていると言われています。

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この建造物の用途も、
時代につれて変遷しています。
王家の監獄から軍営や軍学校まで、
中には絹工場として
使用された時代もあったとか。

そして...。
1930年代のスペイン内戦で
壊滅的な被害を受けました。
しかしその後復元されて、現在は
軍事博物館になっています。

次にもう1つの建造物をご紹介します。

写真右手をご覧下さい。
周囲の建造物よりひときわ目立つ
ゴシック様式の”Catedral Primada”
「トレドの大聖堂」です。

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カトリックの大聖堂では世界最大級であり、
13~15世紀にかけて造営されました。
完成時には、それまでの多々ある建造物を
圧倒した事でしょう。

現在でもこの2つの建物は
町のランド・マーク。
通りを歩くとその立派な姿を
見せてくれます。

画家エル・グレコの描いた町

この2つの建造物を入れて
タホ川と共に描いた画家がいました。

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1614年に生涯を閉じるまで
この地で生きた
ギリシャ・クレタ島生まれの
エル・グレコです。

ところで
彼の作品「トレドの眺め」は、
1つの心象風景とも言われていますが、
作品を観て次のような印象を受けました。

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トレドを覆う町空は
光溢れ躍動する雲
タホ川に架かる古橋に
風に遊ばれる河畔の草木
急坂のある街並みに聳えるは
アルカサルとカテドラル

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また、川を渡ってトレドに入るには
2つの古い橋があります。
1つは、エル・グレコの描いた
「アルカンタラ橋」。
町の坂道や良く保存された家々、
またタホ川を挟んで
「サン・セルバンド城」も見えます。

もう1つは
ちょうど町の反対側に位置している
「サン・マルティン橋」です。

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どちらの橋でも途中で足を止めて
ゆっくりトレドの街並みを眺めるのも
楽しいものです。

立ち話が長くなってしまいましたね。
そろそろ町の中へ行ってみましょうか。

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「ソコドベール広場」

町がある丘に上がると
“Zocodover”「ソコドベール広場」が
すぐ目に入る場所にあります。
先程の乗り物”Zocotren”「ソコトレン」も
ここから出ています。

ソコドベールは、
広場の名前の頭についた
“Zoco” (ソコ)とは「スーク」のこと。
伝統的なアラブ諸国の「市場」の他、
社会生活の中心の場所でもあります。

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ある歴史家によれば、
ここにはアラブの家畜の市が立ち、
その後キリスト教徒支配下では
穀物市場に変化したとか。
いずれも商談する声で
大いに賑わっていたのでしょうね。

とは言え、現在ではこの広場自体、
当時のアラブの市場の面影は
「ほとんど」と言って良いほど
残っていません。

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この門の名は”Arco de la Sangre”
「アルコ・デ・ラ・サングレ」。
10世紀に建てられた門の反対側は
馬蹄形アーチになっていて
当時はアラビア語で”Bab-al-Yayl”と、
呼ばれておりました。

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門から向こう側、
今ご覧になっている辺りの地区は
かつては城塞の中。

城壁で囲まれた都市には
さらに内側に「もう1つの城壁」が
存在したのです。

ところで先程のアルカサルの説明で、
スペイン内戦の話をしました。
当時の写真を何枚か見ましたら、
残念なことにこの辺りも
一部を除いてほぼ破壊されていました。

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それを物語るように
門の上には広場の名前と、
“RESTAURADO 1945″の文字。

このプレートには、
内戦後6年経過した1945年に
復元された事を表しています。

いずれにしても
アルカサルもこの門も含めて、
見事に復元されて
本当に良かったと思っています。

「歴史の小箱」を開けて

さて...。
トレドの歴史がとても古い事は
すでに述べました。

この町の歴史を
仮に各時代の「小箱」で
仕分けが出来るとしたら、
歴史を成す一粒、一粒が
ぎっしり詰まった箱の数が
幾つも必要になることでしょう。

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選ぶのならば
やはり「トレド」らしさ、
言い換えれば
「スペイン文化が凝縮された都」を
決定づけた箱を
開けてみようかと思います。

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さて、どれを選びましょうか。
そうですね...。
街中を歩きながらスナップした感想から、

Blog-11-38

やはり選んだ小箱は
「中世」の箱にするでしょうね。

その理由とは、3つの色どりを放つ
歴史の粒々が良く混ざっているからです。

Blog-11-131
その3つとは、キリスト、イスラーム
そしてユダヤ教徒達。

特に彼等がトレドに共存していた
11~14世紀の時代です。

“Blanco y Negro”
「白黒」アルバムから

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さてここから先は気分をかえて
白黒写真をご覧になって頂きながら
お話を進めていきます。

白黒で撮るのも楽しいので、
以前からよく撮っておりました。
このトレドの風景も
私にとって1コマ、1コマ
思い出深いものばかりです。

カラーとまた異なる「トレド」の表情を
どうぞ味わってみて下さいね。

Blog-11-41

イスラーム教徒支配下の時代

さて、先程まで確か...
「中世」の小箱迄、
話をしていましたね。

でも考えてみましたら、
中世スペインの
トレドの立ち位置を
いきなりお話しするのは
ちょっと解りづらいかも
しれませんよね...。

それもキーワードは3つだけ。
11~14世紀。トレド。
3つの宗教。

Blog-11-83

やはり一旦ここで
当時の様子を簡単に
ご説明しようと思います。
少しの間お付き合い下さいね。

スペインのあるイベリア半島は
711年までキリスト教徒である
ゲルマン系西ゴート族が
数世紀支配していました。
ところがこの年以降、
半島の支配図が一気に変化します。

Blog-11-110

では、キリスト教徒の動きから...。

北アフリカから侵攻してきた
イスラーム教徒。
西ゴート族は彼等に
半島北部アストゥリアスまで
追いやられてしまいます。

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アストゥリアスの山並みは、
先程「スペインの秋」で
すでにご存じですね。
そうです、あの山岳地帯です。

追い詰められたその地で
彼等が建国したのが「アストゥリアス王国」。

後のレオン王国、
カスティージャ王国だったのです。

Blog-11-85

その後キリスト教徒は、
何と800年近くかけて
半島北から南へとレコンキスタ
つまり「国土再征服運動」を
推進します。

そして...1492年。
イスラーム教徒の
「グラナダ王国」を陥落させ、
レコンキスタが完了します。

Blog-11-44

一方のイスラーム教徒の動きです。
「破竹の勢い」で半島の大部分を
手中に収めたイスラーム教徒。

支配した領域は
「アル・アンダルース」と呼ばれ、
最初の王朝「後ウマイヤ朝」は
756年、南スペイン・コルドバに
首都が置かれました。

当時、ヨーロッパの中でも
高度で華麗な文化や
商業が盛んだった都でした。

Blog-11-86

それではこの辺りから、
トレドの町を登場させましょう。

イベリア半島の中央より
やや南に位置するトレドは、
キリスト教徒の手に渡るまで
400年近くアル・アンダルースの
領域にありました。

Blog-11-52

このイスラーム教徒支配下に
入った先住民達、キリスト、ユダヤ教徒は、
どうなったと思われますか。

イスラーム教徒は
宗教に「寛容」だったようで、
トレドの先住民達も
同じ一神教信者の信仰の自由を保証し、
共存しておりました。

Blog-11-43ところが1031年以降、
このイスラームの王朝は滅亡し、
“Taifa”  「タイファ諸王国」、
つまり小さな王国に分裂してしまいます。

Blog-11-89

興亡治乱の原因は、
「市民戦争」という
内部から振り下ろした拳。

Blog-11-87

彼等自身が欠片になることは、
小国=弱体化を意味します。

その出来事を
「高みの見物」をしながら、
ほくそ笑んでいたのは
他ならぬキリスト教徒だったのは
言うまでもありません。

Blog-11-42

正にキリスト教徒にとって、
『チャンス到来!』でした。

Blog-11-90

「トレド王国」

タイファ王国へ分裂以前のトレドは
自治を行っていながらも
都コルドバのアミール(首長)に対して、
従属しなくてはならない立場にありました。

Blog-11-46

皮肉な話ではありますが
先の王朝崩壊により、
トレドの人々にとって
「トレド王国」の首都として
独立した自治を歩んでいく事が
ようやく可能となったのです。

Blog-11-97

また、
トレドのイスラーム文化が
開花する出発点もこの時でした。

アルフォンソ6世の手に渡ったトレド

それから50年後の
1085年。

後ウマイヤ朝から独立した
イスラームのトレド王国もまた
終焉を迎える日がやって来ます。

Blog-11-47

その理由は、
またもや内紛によるものでした。
それに乗じたキリスト教国の
「レオンとカスティージャ」王である
Alfonso (アルフォンソ)6世は
4年間町を包囲した後、

Blog-11-103
町の人々からほとんど抵抗もなく
トレドを、そしてアルカサル(城塞)を
手に入れたのです。

これは、アル・アンダルースとの
辺境線もタホ川南まで下がり、
レコンキスタもぐんと進んだ事を意味します。

Blog-11-49

町に入場したアルフォンソ6世は
「三宗教の皇帝」と名乗り、
イスラーム支配下の時代のように
三者が共に生きる町にしたと
伝えられています。

その背景には
「むやみなイスラーム教徒の追放は、
町に経済的混乱を招くだけ...」。
彼等の財産、主要なモスクも
そのまま継続を許可したのでした。

Blog-11-91

町は王によって
スペインの首座大司教権や
大司教区を再開設され
宗教的な首都になる一方、

以前からあった
イスラーム教徒の商取引は継続し、
こうしてトレドをキリスト教徒の
新たな軍事的な礎(いしずえ)としたのです。

中世トレド・町の3つの色どり

さて今度は、この時代の3つの色どりに輝く
人々に触れたいと思います。

手元に11世紀~13世紀の
町の地区を表した地図があるのですが、
当時の様子はどのようであったと
思われますか。

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イスラーム教徒時代の
堅牢な城壁が
囲んでいた町の中...。

Blog-11-55
キリスト教徒支配下に入り
異教徒達である
イスラーム教徒の地区や、

ユダヤ教徒の地区を
新たに区分けしていました。

Blog-11-50

また、少しややこしいのですが
以前イスラーム教徒支配下で
キリスト教を信仰していた
キリスト教徒 “Mozarabe”
「モサラベ地区」なども存在しました。

Blog-11-56

トレドを実際歩かれると、
「シナゴーグ」と呼ばれるユダヤ教の礼拝堂や
上のような古いイスラーム教のモスク、
また教会の他、
修道院や聖堂を見ることが出来ます。

やはり「中世の都 トレド」と表現される
所以はここにあるようです。

トレドのムデハル様式

次に下の写真のファザードを
ご覧下さい。
煉瓦を精巧に積み上げていますね。

Blog-11-57

じっと眺めている中に、
独特の建築様式を
感じることが出来ませんか。
煉瓦での幾何学紋様。

馬蹄形アーチのドーム。

Blog-11-104

例えば、日本で言う
「和洋折衷」の明治時代の建築を
思い描いて頂ければ良いのでしょうか。

Blog-11-105

このトレドを
「トレドらしく」しているのは、
実は数多くの”mudéjar” 「ムデハル様式」と
呼ばれる建造物が
存在するからなのです。

このムデハルとは、
11世紀~16世紀に建てられた
スペイン・イスラームの影響を受けた
ロマネスク、ゴシックや
ルネッサンス様式と
結びついた建造物のことです。

Blog-11-61

上の写真も、
ムデハルとゴシック様式が融合した
フランシスコ会修道院です。

サン・マルティン橋からもよく見え、
修道院の屋根や、尖塔群の眺めが
とても印象的でした。

Blog-11-62

皆それぞれが安心して
キリスト教会、モスク、シナゴーグへ
通うことが出来た時代。

とは言え、まだまだキリスト教徒による
レコンキスタは完了していません。

先に述べたように、タホ川より南は
アル・アンダルースとの境界でしたから。
当時のトレドの街中にはマントを羽織った
戦士達の姿も見られたはずです。

Blog-11-106

そしてアラブ時代の名残...。
迷路になった狭い通りが
たくさん残っています。

貴方が下のような路地を通る時、
昼間なら水運びのロバに出会い、

Blog-11-63

人通りが少なくなった夕闇の中なら
『自分と今すれ違ったのは、
ランタンや松明を持った昔の人達?』
そんな気分にさせてくれる事でしょうね...。

Blog-11-68

このように「トレドらしい」建造物が
ここかしこに溢れています。
ムデハル様式、
おわかりになって頂けましたか。

3者による翻訳作業

もう1つ、
この3者がこの町で
共に生きた証があります。

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12世紀~13世紀にかけての
「トレド翻訳学校」の存在です。
この学校の存在は、
当時ヨーロッパでも
知識人の中心地となりました。

「学校」と名がついていますが、
一般の学校とは異なります。
実はここでは宗教にこだわることなく、
イスラーム、ユダヤ、キリスト教徒の
学識者が一体となって、

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アラビア語やヘブライ語で
記述された学術書や
ギリシャ古典等を、ラテン語や
スペイン・カスティージャ語に
数多く翻訳された場所なのです。

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かつてイスラーム教徒の賢者達は
彼等の勢力範囲の拡張に伴って、
ギリシャ古典のみならず、
ペルシャやヒンドゥなど
「東洋の知識」を吸収して
身につけていきました。

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そして
彼等の学んだことを
自分達の言語に変換し、
さらに重要なのは、
自身の解釈を付けて
「本」として残したのです。

私達も彼等から学ぶべき姿が
ここで見つかりそうですね。

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この頃、ヨーロッパでは、
ギリシャ古典の哲学や科学は
知られておりませんでした。

ですから、共同作業で
翻訳を進めていった事は、
学術的に後のヨーロッパの人々にとって
多大な影響を与えたことは
想像に難くないと思います。

ところが14世紀になると徐々に
彼等に暗い影が落とし始めます。

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ペストの流行。
経済的な問題による社会不安。
14世紀末には民衆の不満のはけ口が
まず裕福なユダヤ教徒へ向けられます。

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すでに
第8話「モハカールの今昔」で述べましたので
ここでは詳細な経緯は割愛しますが
ユダヤ教徒始め、そしてイスラーム教徒も
やがて国外追放される日を
迎える事になるのです。

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こうしてみますと平和な世の中は
いつの時代でも「つかの間」。
本当に長続きしないものですね...。

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それでは
中世トレドのお話もこの辺で。

そうでした...!
開けた中世の小箱は、
蓋を閉めて元の場所へ
きちんと戻しておきますから...。

どうぞご心配なく♪

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本日ラストの秋色達

さて今回は日本の秋を、
そしてマドリードから
伸びている道を通して旅した
スペインの秋を幾つかご覧頂きました。

アランフエスの軽い散策から
水の道、タホ川を辿って古都トレドへ。
トレドの歴史話は
如何でしたでしょうか?
トレドは「語る場所多き」で、
実はまだまだ語り尽くせません。

ラストの写真はまずスペインから3枚を、
そして日本の秋色の華やかな景色を2枚
選んでお届けします。

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そう言えば
お話しておりませんでしたが
マドリードッ子達に
「トレドへは行ったことがある?」と、
尋ねられたり、勧められたりしました。

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私もトレドへ旅する前知識として、
「3つの文化が融合された古都」と、
このように思っておりました。

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でもそれだけではなく、
アルフォンソ6世が
かつての西ゴート王国の首都を
レコンキスタしたことが、
その後の推進活動に
いかに弾みがついたことか...。

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ある意味、キリスト教徒である
現在の多くのスペイン人にとって
「心のふるさと」なのかもしれません。

そしてまた、この独特のトレドらしさとは
スペインらしさにも繋がるのです。

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次回も引き続きトレドより
白黒写真を中心に
「現代の街角の表情」を
お届けしようと思います。

それからブログUPを
大変お待たせしてしまいました。

最後までご覧頂きまして
ありがとうございました。

お知らせ

お知らせが2つございます。

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前回ブログ「第10話」
アーモンドに関する訂正とお詫び

前回ブログのお話で
アーモンドがスペインへ入ってきた経緯に
誤りがございました。

アーモンド栽培の起源と、補足的に
スペイン語の語源も合わせて

食材辞典や語源学関係、
その他の資料を幾つか調べてみました。

まず、
ヨーロッパへ広まった経緯は、

「アーモンドの実は西南アジアから
ギリシャ、ローマへともたらされ、
その後ローマ人によってヨーロッパへ
広まった」とされています。

またフェニキア人によって
スペインへもたらされた説もあります。

もう1つ、
スペイン語の「アーモンド」の語源からも
調べてみました。
スペイン語でアーモンドは
“almendra”(アルメンドラ)と言います。

スペイン語には、
例えば”alcohol” 「アルコール」など
“al” で始まるアラビア語源の言葉があります。
ただ今回の”almendra”のように
例え”al” で始まっていても
アラビア語源でない言葉も存在するので
すこし厄介です。

そこで
Royal Spanish Academyの

電子辞書(2001年度版)や、
小学館『西和中辞典』(1990年度版)を見てみますと、
スペイン語のアーモンド、
「アルメンドラ」はどちらの辞書にも共通して
amyndăla (ラテン語)が由来と記述されています。

結果、前述の
「ローマ人によってヨーロッパへ広められた」こと、
また上記の語源内容からも

少なくともイスラーム教徒が
侵攻する以前に
イベリア半島にアーモンドが
すでに実っていた事になります。

以上のことから、
問題の箇所を削除すると共に

ご迷惑をおかけした事に対し
ここにお詫びを申し上げます。